『桜風』


  怒号で目を覚ますと、すっかり夜が更けていた。気だるさの残る身体を起こそうとして、節々の痛みに顔を顰める。
「あれ……」
  布団へ手を突いて隣を振り返り、暗い部屋に一人であることに遅れて気が付く。狭い自室の畳へ直接敷いた布団。少し湿り気を帯びているシーツは、自分の寝ていた場所だけが熱を残しており、共にいた人物が随分早くに消えていたことを思い知らされた。
「まあ、そりゃあそうか……」
  立てた膝がしらに肘を突き、頭を抱えて苦笑する。
  現役高校生でありながらファッション雑誌のモデルとして活躍し、最近では清涼飲料水のテレビCMにまで出ているクラスメイトの葦原大和(あしはら やまと)は、学校じゅうの人気者だ。そんな大和と進路指導室前の廊下で鉢合わせ、墓場まで持っていくつもりだった気持ちを告白する羽目になったのは、本日の放課後。遅れてやって来た担任教諭へ進路相談を終えて廊下へ出てみると、なぜか大和が自分を待っていた。
  1時間後にはどういうわけか、マホロバ駅前のカラオケボックスで盛り上がり、2時間後にはこの部屋でセックスしていた……怒涛のごとき午後の出来事だった。だからといって、けっして自分の想いが受け入れられたというわけではない。

  ごめんね、日盛(ひもり)。俺ずっと好きな奴がいるから。

  大和ははっきりと自分にそう言った。
  カミシロ人の平均身長を上回る、180センチに届くスラリとした痩躯、綺麗な二重瞼にやや目尻が下がり気味の目の輪郭と物言いたげな眼差し、細く高い鼻梁の下には、いつも甘えたような微笑みを絶やさない薄い唇、そして彫りの深い顔だち……加えて、明るくはっきりとした性格と、挨拶のように口からいくらでも飛び出してしまう、どこか思わせぶりな誘い文句が揃えば、女にもてないわけはない。
実際に大和が登校している日には、それ自体がニュースとなって学校じゅうを駈け廻り、同じ3年のクラスからだけではなく、1年や2年からも次々に教室へ見物人が現れる。積極的な女子生徒が直接大和を誘いに来ることもあるし、呼び出されてどこかへ消えることも珍しくはない。戻ってきた大和の手にラブレターらしき手紙やプレゼントが握られていることは恒例だ。
  だが、どういうわけか大和が誰かに靡くことは一度もなかった。それもこれも、心に秘める相手がいるのだとするなら納得出来る。そんな大和が、自分を振ったあとで……というよりもいっそ、直後にデートを誘ってくれてセックスをした。
  「デート……なんだよな、一応?」
  カラオケボックスに籠っている間も、大和はいつになく自分に身体を寄せて、肩を引き寄せ、耳元で囁くように話しかけていた。これまでも仲が悪かったわけではないが、あそこまで至近距離で接触したことはなかった筈だ。
 
  峻の部屋に行っていい……?

  そう大和が言い出し、いつの間にか呼び方が変わっていることに気付かされて、断れなくなっていた。そして自室へ着いた途端にキスをして身体を求められた。階下の食堂で働く母が気になったが、舌を入れられ、身体に触れられながら制服を脱がされ始めると、もうどうでもよくなった。そしてついに好きな男と初体験をしたのだ。

  再び怒号が聞こえて窓を少し開けてみる。すっかり夜が更けたヨミザカ商店街は、人の往来もまばらだ。
  日頃は母、日盛麗子(ひもり れいこ)が守っている食堂『ひもり』の周りは、バーやスナックといった夜の店が多い。中でもひと際目を引くのが、斜め向かいにあるキャバクラ『ティアモ』だろう。派手なネオンサインを出し、寂れた商店街の中で異彩を放っているが、ホステスとサービスのグレードは高いらしく、父の日盛要(ひもり かなめ)を除いた商店街のオーナー達も、足繁く店に通っていると聞く。
  美人揃いのホステス達を守るかのように、営業中の店の玄関へ立っているのは、見るからに強そうな用心棒だ。それはいつも同じ人物で、スーツとシャツ、ネクタイの全てを黒で統一しており、背丈が恐らく190センチ近い屈強な男である。短く刈り込んだ硬そうな黒髪と顎の張った四角い顔、目尻が極端に吊りあがっている一重瞼の切れ長の目からは、視線だけで人を殺せそうな鋭い視線を投げかけている。鼻梁の突き出た高い鼻と、いつも固く引き結ばれている肉厚で大きな口、頑丈そうな太い首……一見したところはカミシロ人で間違いないだろうが、男がその身に持っている身体的特徴は半島のアグリア人を思わせる……おそらくハーフかクオーターなのかも知れない。
  だからといって街で暴れ回っているアグリア人マフィア達のように、喧嘩っ早いかというとそうでもない。現に今も、店から追い出されたらしい一人の酔っぱらいから、しつこく罵声を浴びせられているが、男が言い返したり、暴力制裁に出る様子はない。それでは見かけ倒しの用心棒なのかというと、そうではないことは、これまでにも何度かこの目で見てきた。あるときアグリア人同士らしき、毛深い大柄なチンピラ達が店の前で喧嘩を始めたとき、この用心棒は速やかに間へ割って入り、あっという間に二人の男を路面へ抑えつけて、やってきた警官へ引き渡していた。

  スマートフォンを見ると、午後10時を過ぎていた。『ひもり』の営業時間はとっくに終了しており、階下は静かだ。この時間であれば、すでに母はアルシオン軍基地にある病院へ清掃のパートに出掛けているであろう。同じくアルシオン軍基地内の食堂でアルバイトをしている父が、そろそろ帰って来る時間だ。
  上半身を起こすとズキリと腰に痛みが走った。
「っ……、あ……」
  続いて体内から何かが流れ出てくる感触があり、それが大和の残した物であるとわかる。
「本当にやっちゃったんだ……」
  胸の奥底からこみ上げる、ほのかに甘酸っぱい期待めいた予感を抱えながら気だるい身体を起こすと、日盛峻(ひもり しゅん)は自室から壁伝いに暗い廊下を渡って、ゆっくりと風呂場へ向かった。

  翌日、峻が学校へ行くと、昨日の放課後、甘いひとときを共に過ごした相手は欠席していた。
  芸能人のような仕事をしている大和は、日頃から学校を休みがちで、成績があまりよくない峻とともに進路指導室の常連でもある。昨日も中間テストに続いて実力考査が最下位圏だったと、峻がコンコンと説教を受ける直前、出席日数のことで大和は担任の加賀純二(かが じゅんじ)教諭から注意されていたようだった。
  体育担当の加賀は格闘ゲームや熱血系のエロゲーが趣味という話のわかる大人で、峻たちの3年C組以外のクラスからも、主に男子生徒から人気のある男だ。だからといって仕事にルーズなわけでもなく、連続で試験の成績が悪かったり、家庭やプライベートで事情を抱えている生徒には、必ず個別に指導をする。そんなときにも笑えるネタを大抵仕込んでくれるところが、3年連続学年別教諭ランキング人気ナンバーワンを死守している所以だろう。昨日も10分間の生徒指導時間のうち、8分までは最近中古で手にした『もののけびと』がいかに名作であるかで熱弁を振るっていた。峻もまたゲームが好きだと知っていてのネタチョイスだとは思うが、BLゲームしか知らない峻を相手に、もののけハーフの美少女達が大バトルを繰り広げる熱血エロゲーの魅力を力説されても、どのように反応してよいかわからない。強いて言うなら、クールな白ラン生徒会長の男子生徒に少々興味を引かれ、主人公の少年とどうにかなってしまうルートがあるなら買ってもよいと思ったぐらいだ。残り2分でしっかり勉強しろよと言われて解放された。だが、直前まで指導していた大和を相手にしているときには、そんな加賀も、進路指導室の向こうの廊下へ、持ち前の大きな笑い声や冗談を飛ばす声を響かせはしなかった。大和の出席状況は存外深刻なのかもしれない。2年からのクラス持ち上がりで、大和とは昨年以来の付き合いになる峻だが、たしかに3年に入ってからは6月まで、殆ど登校している気がしない……とくに6月に入ってからはこの月末まで、まだ1週間分も出席していないだろう。昨日のこともあり、気になってメールを打ってみたが、夜まで待っても返事はなかった。6限まで授業を終えて帰宅時間を迎える。

  峻が通っているマホロバ府立青垣(あおがき)高等学校は、アオガキ市営環状線の主要駅であるマホロバ駅から北に徒歩20分程度の場所にある。近くには皇居の鬱蒼とした緑が見え、同じく駅の北側には名門男子校の白鳳(はくほう)学園があり、南側には国内最高学府のマホロバ帝国大学やマホロバ女子医科短期大学などがある。だが、北も南も駅前周辺ばかりは、ごみごみとした繁華街である。その多くは戦後エスティア大陸の半島から流入してきたアグリア人の成り上がり者達が経営しており、彼らの元締めであるアグリア人マフィアと、酔っぱらったOGPのアルシオン兵が駅周辺には溢れかえっている。
  18年前このカミシロ皇国は長きにわたる安息海戦争に敗れて、この国の統治はアルシオンの駐留軍、OGPこと『オーガナイゼイション・フォー・グローバル・ピース』の手に渡った。生まれたときからこの環境だった峻にとっては、それのどこが悪いのかはよくわからない。かつてこの国はエスティア大陸を侵略し、多くのエスティア人達を苦しめ殺した。中には『ホクマ大量虐殺事件』という、罪もない30万人もの一般市民を殺戮した悲惨な事件も、戦時中にはあったという。
  峻はもともと勉強が苦手で、とくに退屈なカミシロ史の授業では、どうしても睡魔を我慢出来ない性分だから、正直なところ詳しいことはよく知らない。だがこの事件については担当教諭の声が熱を帯びて、極悪人たる軍部や政治指導者達が既にスザク拘置所で処刑されていることを誇らしげに語っていた気がする……法律で裁かれたとはいえ、自国の指導者がそのような大罪を犯したことには違いがないのに、なぜそうも自慢げに教諭が語るのか違和感があったから、峻は中学三年のクラスで体験したこの授業のことをよく覚えている。
  ともあれ、戦争に負けた我が国には、敵対していた筈のアルシオンから駐留軍がやってきて、先進国家である彼らによってこの国にも民主化の風が吹いた。本来であれば廃止されるべきだった皇室が残されたのは、アルシオンの温情なのだという。そしてかつて非道な軍部によって三十万もの民を殺されたアグリア人達は、カミシロの搾取から解放され、首都であるこのマホロバにも多くのアグリア人達が暮らしている。
  アグリア人達はとても特徴的な外見をしている。平均身長は2メートル前後もあり、全身が褐色の濃い体毛に覆われ、彫りの深い角ばった顔と大きな鼻孔を持つ鼻梁の高い鼻に、パックリと裂けたような口、吊りあがっている目尻の奥まった双眸……女でも身長は180センチ近い。単一民族であるカミシロ人の中において、軍服姿の白色人種であるアルシオン兵も目立つが、アグリア人は遠目に見ても浮き上がって目に付いてしまう。心ないカミシロ人の学者たちの中には、ソヴェティーシュとミュージャの国境付近にあるエスティアの山岳地帯に棲息している、猿が突然変異を起こしてアグリア人になっただの、人間と猿が獣姦した末裔だのと、荒唐無稽なルーツを唱える人もいて、呆れたことにそれをまともに信じている大人もいる……たとえば峻の父がそうだ。
  父の要はアグリア人に対する差別意識がひどい……いや、父だけではない。多くの大人は大抵アグリア人が嫌いだ。駅前を中心に街で溢れかえるターリーチーセダなどのアグリア人マフィアやチンピラ達が日々起こしている暴力事件を考えればある程度は仕方がないのだろう。だが、かつてカミシロは戦争中に、彼らの故郷であるアグリア半島で30万もの人々を殺害し、彼らを搾取したのだから、今さら何をされても文句は言えないのだと、中学のときに峻は教えられた。何が本当なのかがわからなくて、峻はあるとき進路指導室で加賀教諭にこの質問をぶつけてみたことがあるのだが……。

  そんな小難しいこと聞かれても先生わかんねえよ。それより、お前が言っていた『鬼畜ネコ耳』ってゲームやってみたんだが、男しか出てこねえじゃん! ネコ耳カチューシャを掛けて萌え萌えに豹変した登り竜の兄貴にいきなりケツ掘られて、先生びっくりしちまったよ!

  何かに目覚めたような加賀のつぶらな瞳の爛々とした輝きを前に、屈強なネコ耳兄貴を次々に犯す攻め攻めエンドへ進む攻略方法を熱弁させられた、うららかな午後だった。


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