マホロバ駅からアオガキ川を超え、市営環状線に揺られること5分。ヨミザカ駅の高架になっているホームから西改札を抜け、ヨミザカ駅前商店街の入り口付近に看板を出している『ひもり』という食堂が峻の家だ。この商店街はその半分ほどが、『ひもり』の向かいにある『ティアモ』のような夜の店であり、昼間に営業している店はほとんどない。そういう意味では競合店も少ない恵まれた状況と言える筈だが、そもそも商店街自体が寂れていて、半分以上が空き店舗である、いわゆるシャッター商店街だ。マホロバ駅前のような主要駅前の商店街を見れば、殆どがアグリア人マフィアの息がかかった店で、チンピラやOGPの酔っぱらいがウロウロとしており事件も多いようだが、人通りが多いぶん店も繁盛している。その状況とどちらがいいのかは考え方によるだろう。結局『ひもり』だけでは成り立たず、峻の両親は共にOGPの基地内でアルバイトをしている。どの店も似たような状態だ。商店街で繁盛している店は『ティアモ』ぐらいだろう。
白い暖簾の前まで来ると、珍しく店内から賑やかな話し声が聞こえてきた。
「お客さんかな……」
白木の格子戸を開けると、目に飛び込んできたのはアグリア人らしき大きな背中。それだけで心臓が委縮するのがわかった。
「い……いらっしゃいませ……」
蚊の泣くような声で挨拶をしながら店内を見回す。目の前に立っていた背中の大きな男は、峻が入ってきたことにも気付かなかったのか、テーブルとテーブルの間にある通路を塞ぐように、店の真中で仁王立ちしながら腕を組み、カウンターの向こう側を睨んでいる。
季節は6月末、本日もマホロバは気温35度を超える猛暑だというのに、暑さが堪えないのだろうか、この時期に体毛の濃いこのアグリア人はブラックレザーのライダースジャケットと同じくブラックレザーのパンツにロングブーツを合わせていた。フロントファスナーを開放したジャケットの下は、発達した筋肉と長い体毛を見せびらかすかのように、何も着ていない。店の奥には赤を基調としたアロハシャツとデニムを着たアグリア人が、横柄にカウンターへ片脚を上げて腰掛けており、カウンターの出口を塞ぐような位置に地味な作業着の上下を着用した男が煙草を吹かしながら立っている。全員がアグリア人であり、どうみてもまともな客ではない。カウンターの奥では母の麗子が顔を赤くさせながら対応中だ。
「お代はいりませんから、帰って下さいな……」
白衣の裾を握りしめ、声を震わせながら母が告げる。
「だからさあ、丼にこんなモン入れといてこっちは気分悪くしてんだよ。気付かないで食っちまったら、どうしてくれたんだ? お代いりませんで済む問題じゃねえだろうが、おばさんよお」
「ひぃっ……!」
外見に比して随分と甲高いトーンでアロハの男が声を尖らせると、カウンターへ乗り上げた脚の爪先で丼を蹴飛ばした。峻は慌てて駆け寄ろうとしたが、作業着の男が邪魔になって中へ入れない。2メートル近い高さからギロリと冷たい視線で見下ろされ、峻はその場に立ちつくす。だが母の足元で割れ、中身のぶちまけた丼の中に、タレの滲みこんだ飯やトンカツ、紅生姜の他、ネズミと思われる死骸が一緒に床の上に転がっていた。あんなものが入るわけはないし、万一入り込みそうになったとしても、絶対に途中で気付くだろう。ようするに、この3名は母を強請りにきたチンピラだ。アグリア人マフィアの一味かも知れない。
「あ、あの……その辺にして頂けませんか……母もこうして謝ってますから、これ以上のことは、その……」
言いながら峻は鞄を探る。
「ほう……お前はここのガキか? 随分と可愛い顔してんじゃねえか、婆ァはただのデブなのに」
いつのまにか入り口に立っていたレザージャケットの男が背後に来ていて峻は飛び上がった。しかしそのお蔭で指先がスマートフォンを探り当て、それを握り締める。
「え、ええと……とにかく、これ以上居座られるようなら、その……ちょ、ちょっと……ッ?」
いきなり腕を掴まれ、強く引き寄せられる。弾みで峻は足元のバランスを崩し、レザージャケットの男の腕の中へ引き込まれていた。そのまま尻を撫でられ、峻は眉をしかめる。
「なあ、少し俺達に付き合わないか? そしたらすぐに引き上げてやってもいいぜ? お袋さん守りたいだろう?」
大きな顔を至近距離に寄せられ、生温かい息を耳元へ浴びせられる。
「何するのよ、あんた達……息子に手を出さないでやってください! 金なら出しますから……きゃあっ」
「うるせえ、婆ァは黙ってろ!」
カウンターへ身を乗り出した母へ向けて、アロハの男が鷲掴みにした割り箸を投げつけた。20膳ほどもあった割り箸は母の顔や身体で勢いよく跳ね跳んで、ブチまけられたカツ丼の上へバラバラと零れ落ちて台無しになる。
峻は奥歯を噛み締めながら、拘束されていない側の手で鞄の中のスマートフォンを操作する。視界の端で確認しながらキーパッドを表示させ、続いて番号を押し、通話ボタンへ指先を移動させた。
「パジュ、右じゃなくて左手を拘束しろ」
「ああ? ……なんだよ」
作業着の男に言われ、首を傾げつつレザージャケットの男、パジュが峻の左手を掴みあげると、その手からスマートフォンが零れ落ちる。回線が繋がれた途端、近付いて来た作業着の男が機械を拾い上げて電話を切ってしまった。
「このガキ、警察に電話してやがった」
作業着の男が通話履歴を見せながら言った直後、電源を切る。これで警察が折り返してくれても電話は繋がらない。峻は絶望的な気持ちで溜息を吐いた。
「警察か……こいつはまた面白い真似しやがるぜ。武装も解かれたカミシロの警察が俺達に何か出来ると思ってるのか?」
アロハシャツの男が馬鹿にしたような目で峻を見た。確かに男の言う通りだ。戦争に負けたカミシロはOGPによって軍が解体されただけでなく、警察も武装を解かれ、警棒ひとつで警官は犯人に立ち向かう羽目になっている。そのため、アグリア人マフィアのような、拳銃やどうかすればロケットランチャーなどを持っている暴力組織相手にはほぼ無力だ。男がこう言ったということは、彼らはやはりマフィアの一味ということだろう。こんな相手に睨まれたとなれば、峻が抵抗したところでどうにもならない。諦めて言う通りにするしかないのだろうか。
峻は身体の力を抜く。その途端にレザージャケットの男から引き摺られるようにして、出口に連れて行かれた。背後で母が峻の名前を叫び、アロハの男がまるで嫌がらせのように全てのテーブルを蹴り倒し、床に割り箸や醤油、一味などをバラ巻いている。峻は奥歯を噛み締めた。そして引き違い戸が開かれた途端、引っ張られていた腕の力が抜け、次には隣の床でレザージャケットの男が仰向けに倒れていた。
「あ……あなたは……」
入り口から背の高い黒づくめの男が入ってくる。
「糞っ、てめぇ何す……ぐあぁっ」
スーツの男が長い脚を蹴りあげ、その勢いで再びレザージャケットのアグリア人が店の奥へと吹き飛ぶ。
「うぉらあああ、舐めてんじゃねぞっ……」
「危ないっ……」
アロハの男が飛びかかろうとしており、峻が警告を発すると、黒スーツの男は振り向きざまに脚を蹴りあげアロハの男の胴へとめり込ませた。
「どけっ!」
「あっ……」
突然背中を強く弾き飛ばされ、峻は肩を壁にぶつける。弾みで『ひもり』の取引先電器店の日めくりカレンダーが床へ落ちた。入り口を見ると、作業着の男は仲間を見捨てて既に店から退散していた。
「糞っ、覚えてろよ……」
後を追うように捨てゼリフを吐きながら、ブラックレザーの男とアロハの男も店を出て行く。
「大丈夫か?」
間近に声をかけられて振り返ると、黒スーツを着た彼がまっすぐに峻を見下ろしていた。そしていつの間にか拾い上げてくれていた日めくりカレンダーを手渡される。
「ああ、はい……あの、あなたこそ大丈夫ですか?」
「俺は平気だ、こんなことはしょっちゅうだからな」
そう言って男は一重瞼の目をやや眇めた……そうすると、表情が少しだけ和らぐ。どうやら、あまり表情の変わらない彼なりに、微笑んでいるようだった。
「そうでしたね」
「ん……?」
何気なく同調すると、男が不思議そうに首を傾げた。峻は慌てる。
「えと……あの、俺の部屋から『ティアモ』が見えてるから……その……」
言い訳しながら峻はますます焦った。部屋から「見えている」とは言え、意識して観察しなければ、店先に立っている男の行動まで把握は出来ない。これではしょっちゅう峻が部屋から「見つめている」と告白したようなものだった。気味悪がられるのではないかと心配したが、男は再び微笑んだ。
「なるほど、それもそうだったな」
深く考えることもなく、あっさりと納得したようだった。峻はホッと胸を撫で下ろす。そしてクルリと振り返った男の視線を追い、峻は大きく溜息を吐いた。
「派手にやられちゃったなあ……」
倒れた机を戻しながらぼやくと、隣で同じように男が机や椅子を整え始めていた。
「ああ、置いておいてください。そんなことして頂くわけには……」
「気にするな、二人でやった方が早い。それより、日替わり定食、お母さんに頼んで貰っていいか?」
「……もちろんです!」
峻は厨房へ向かって走ると、床を片付けていた母へ日替わり定食を注文した。
男は『ひもり』の向かいで営業しているキャバクラ『ティアモ』の用心棒、音信恋(おとずれ れん)だ。いつも峻が窓から見ている、大柄なあの男である。背が高く寡黙で忍耐強いレンは、落ち着いた印象の割にまだ25歳で、思っていたよりずっと若かった。この時間はいつも売掛金の回収から戻り、開店準備時間までの間にあたる昼休憩時間らしい。そして『ひもり』の前まで来たところ、店内からアグリア人達の乱暴な声に気付いて助けに入ってくれたのだ。
目の前にあるため『ひもり』の存在は前から知っていたようだが、彼が守っている昼食の予算を僅かにオーバーする為、日頃は駅の東側にあるラーメン屋まで足を伸ばしているのだと言う。しかし、いつものようにそのラーメン屋へ行ってみたところ、本日は改装の為に営業しておらず、諦めて帰って来たところだったらしい。改装には1週間程かかるらしく、当分彼は別の昼食場所を探す必要があるようだ。
「まあ、それでしたらうちにいらしたらいいのよ。いっそ1週間と言わず、これから毎日いらしてくださいな、ご飯もおかずも大盛りサービスしますよ」
母の麗子がカウンターの向こう側から身を乗り出しながら、嬉しそうに言った。
「みっともないからやめなよ、もう……。レンさん、ごめんね。母ちゃんったら厚かましくって恥ずかしいよ」
峻が顔を赤くしてグラスに冷水を満たすと、レンは微笑しながら丁寧に礼を述べて受け取った。
「ありがとう。……いや、冗談ではなく本当にそうさせて貰おうと思う。こんなに美味しいとわかっているなら、もっと前から来るべきだった」
「でも予算オーバーするんでしょう? 確かに『彩』ってラーメンとか餃子しかやってないけど、美味しいうえにワンコインが売りだからなあ……ねえ、母ちゃんうちも5ディールに出来ないの?」
「何言ってんの、今がギリギリだわよ。まったく……野菜も肉もどんどん高くなって、しんどいったらありゃしない」
「いや、今の価格で充分だと思う。これだけしっかり食べられるなら、夕飯を削ればいいだろうし、その方が健康にも良い」
「本当に? じゃあ、レンさんが来たら毎日大盛りにしてあげるからね!」
「いや……これで充分だから……」
嬉しそうな笑顔を峻に向けられ、レンはたじろいだ。
この日から宣言した通り、峻が学校から帰るタイミングを計るかのように、毎日レンは定食を食べにきた。初日こそ、自分達をアグリア人達から守ってくれた感謝の意味で、母は代金を取らなかったが、翌日からは通常通りに7ディールを請求した。その代わりということなのだろうか、レンの定食はいつもやや大盛りになっているように峻には見えていた。
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