手を包む温かな感触が微かに蠢き、峻は目を覚ます。
「ん……」
小さく呻きながら瞼を押しあげると、ひそやかな息吹が耳の先を掠めた。峻は軽く瞬きをする。
「峻……?」
これ以上もなく優しい、漸く最近聞きなれた感覚のある声が、自分の名前を口にする。
「レン……さん……?」
気だるさの残っている身体に鞭を打って顔を上げ、そして上半身を起こしている男と視線が絡み合った。クッションを二つ重ねて背中を預け、男はソファへ両脚を上げて座っている。そして自分が、男の膝へ突っ伏すようにして寝ていたことを改めて自覚した。
「悪い……起こしたか?」
「レンさん……!」
「峻君……おはよう」
相変わらず目尻の吊りあがった男の目は、それでいてこれ以上もないほど、慈しみに満ちた優しい笑みを湛えて、愛しむような眼差しを峻へと向けていた。
ふわりと額に手が伸び、気遣うような指先が峻の前髪を梳く。その手首と、シャツを脱いだ上半身の腹部や、反対側の上腕には、何重にも分厚い包帯が巻かれており、辺りには治療にあたって大量に使用された薬剤の匂いが未だに充満している。
今が何時なのかはよくわからないが、おそらく数時間前、紅葉やリュウという少年によってここへレンが運搬されたときの光景を思い出し、峻は今さらながらに身体が震えだすような不安を覚える。
「レン……さんっ……」
視界がじわりと涙で歪む。
黒いスーツの下に彼が着ていた、元は白かったシャツは、彼が流した血で真っ赤に染まっていた。背中から切りつけられた傷口は深く、峻はすぐに救急車を呼ぼうとしたが、それは紅葉によって止められた。
アグリア人クオーターであるレンは、ただそれだけを理由に診察を断られるケースが少なくない。医療保険に加入しておりカミシロ国籍を持つレンであれば、この国の医療制度を支障なく利用出来る筈だが、外見からしてアグリア人の血を引いていることが明白なレンが病院施設に留まることによって、アグリア人に良い感情を持たない患者や場合によっては医療従事者からも、非難や罵りを浴びせられ、場合によっては、アグリア人による事件被害者がパニックを起こして混乱となり、病院側から退去を懇願されたことが、これまでに何度もあったのだ。近隣にはアグリア系の医療機関も存在するが、レンのような存在はどちらにいても浮いてしまう。とくにマホロバのような人種、民族が入り乱れている都市部においては、アイデンティティーに根差した対立やトラブルが消えることはない。
過去にカミシロ人がアグリア人を迫害したかどうかの真偽はさておいて、しかしながらレンが現実に受けている様々な境遇は、まぎれもない人種差別だろう。そのような不当な扱いに甘んじるべきではないと峻は腹立ちをもって抗議をしたが、即座に紅葉に一蹴された。軽い怪我や初期症状の病気であればともかく、今のレンが万一たらいまわしにでもなれば命に関わる……日頃明るい紅葉が厳しい表情で冷静に反駁する言葉は、したたかに峻を青褪めさせた。事態は深刻であり、切迫していたのだ。ひょっとして、レンが死ぬかも知れない……そう考えた瞬間、峻は足元から崩れて奈落へ突き落されるような恐怖を覚えた。
その場で紅葉は彼らのボスへ連絡し、折り返し彼の携帯へ電話が架かってきたのが5分後。まもなくあの美しいボスの知己であるという初老の医師が、『ティアモ』のバックヤードへ通されて、目の前で処置が開始された。看護婦や助手の一人もいない、持参した黒鞄に入っている薬品や医療器具だけで行われる行為は、峻を不安にさせたが、10分ほどで終わった。その間、精悍だった筈のレンの表情は、意識を回復せぬまま、ときおり眉間や目の下に苦しそうな皺を寄せるだけだった。
医師は無言のまま速やかに持参した器具を、元通りに鞄へ収めて戸口へ向かったが、外まで彼を見送り、店へ戻ってきた紅葉から改めて医師の名前を聞いて峻は驚いた。現れた人物は、カミシロでも屈指の大病院である、大八島(おおやしま)病院の院長だった。峻にこそ何も教えてくれなかったが、見送った紅葉は院長と話して安心したのだろうか、戻ってきた表情にはいくらか安堵が見てとれた。
間もなくこの場を峻に任せ、紅葉とリュウも帰路へ着いた。二人とも顔には色の濃い疲労を滲ませていたところを見ると、前日に出勤してから、相当の時間が経過していたのだろう。それでも頼りになる紅葉は、何かあったらいつでも呼び出せと、彼の携帯番号を残してから立ち去った。
二人きりにされ、目の前で眠るレンの表情が、治療前と比べて穏やかになり、よく見れば呼吸も落ち着いていると峻も気が付いたものの、それでも不安はそう簡単に消えるものではなかった。その瞼を上げて、大きくはないが慈愛に満ちた目に峻を映し、もう一度自分の名前を呼んでほしい……。力なくソファの上からカーペットへと流れ落ちている大きな手に自分の指を絡ませ、両手で握りしめ、抱きしめながら、峻は目の前の動かない膝へ顔を伏せた。
「レンさん……早く起きて……」
何度も願い、その愛しい名前を繰り返し呼びながら、峻は頬を伝い落ちるものを、今は巨躯を覆っているクリーム色の毛布へと滲ませ続けたのだ。そうしているうちに、いつしか峻の身体も体力の限界が来て眠りに落ちてしまったのだろう……。
「峻……心配かけたんだな……すまなかった」
優しく自分の髪を梳いてくれる大きな手をとると、峻はそれをもう一度両手で握り直した。そして顔を埋めて口唇を押し付ける。上半身を起こしていた男が、近い場所で大きく息を呑んだことがわかった。
「心配した……もう、起きてくれないと思った」
「そうか……本当に悪かった」
別の手が伸びて、峻の肩に置かれる。その瞬間、思わず峻は飛び上がった。
「つっ……」
「わ、悪い……大丈夫か……?」
「平気……ちょっと油断してただけだから」
そういえば、自分もアグリア人から傷付けられ、レンの後で医師から処置を受けていたことを思い出す。アロハの男がプラスチックの破片を手にレンへ切りつけようとしていた為、峻はレンを庇おうとして、怪我を負ったのだ。
今思えばその無謀な行動が、その後レンを襲った災禍の呼び水となったのだと理解出来て、自分で自分に腹が立つ。あのとき下手に峻が介入しなければ、少なくとも怪我をするような無様な事態にならなければ、レンはもっと自由に動いて、このような大怪我を負うこともなかった……。自分が手を出すまでのレンは、本当に強かった。
「俺がもっと早くに行ってればよかったのに……本当にすまなかった……」
包帯で覆われた場所を避け、レンがそっと労わるように肩の上に掌を重ねる。
「何言ってるんだよ……レンさんこそ、こんな大怪我しちゃって……俺のせいで……」
「馬鹿言うな……こんな掠り傷どうってことない。俺は自分に猛烈に腹が立ってるんだからな」
「どうして……」
「わからないか?」
握りしめていた大きな手がすっと手元から引き抜かれ、戸惑っているうちに、今度は怪我をしていない腕を強く引かれて、峻はバランスを崩す。
「うわ……とと、ご、ごめんなさい……」
その場で強引に立たされ、バランスを崩した峻は、怪我をしているレンの胴へと見事に乗り上げていた。分厚い包帯を巻いている腹部へ思わず手を突いてしまい、峻は慌てて身を引こうとするが、しっかりと峻の上腕を掴んでいるレンの右手がそれを許さない。
「君を傷つけるアイツらを殺してやりたいと思った」
「え……」
間近に見るレンの表情には、今まで見たこともないほどの、強い情念が渦巻いて見えた。違う……ガード下で3人のアグリア人達を相手に格闘するレンの目は、確かに今のように鋭く光り、激しい感情が渦巻いていた。日頃穏やかでカミシロ人以上に自分を抑える傾向があるレンの身には、やはり自分達とは違う、アグリア人の情熱的な血が流れているのだ。
「君を弄ぶような男に身体を許しただけでなく、俺の目の届かないところで、あんな奴らに捕まった君にも腹が立った」
「それは……ごめんなさい……」
力づくで連れ去られたとは言え、元をただせば今回のことは、峻の迂闊さに原因があった。夜更けに家を抜けだし、商店街近くでぼんやりとしていて、彼らが近づいてきたことにも気付かなかった。自業自得といえばその通りなのだ。そのせいで峻はレンにこれだけの大怪我を負わせた。自分が傷付いたこと以上に、それが自分で許せない。
「俺の知らない君の身体を堪能するアイツらに、激しく嫉妬した……君を振った大和にもだ」
「えっ……?」
「峻……俺は今、どうしようもないぐらいにこの身体が欲しいんだ……君をくれるか?」
言われていることの意味が即座にわからなかったわけではない。だが、信じ難かった。それは……つまり、セックスしたいと申告されているのだろうか。けれど、どうして……? そんなことが、ありえるのだろうか。
「でも……なんで……? 嘘だよ、そんなの……」
「駄目か……? 確かに、俺には君を凌辱したアイツらと同じ、アグリア人の血が流れているから……」
レンが自嘲するように苦笑を浮かべ、峻は慌てて否定した。
「違うっ、同じわけがないじゃないっ! レンさんは、俺を助けてくれたし、俺が大好きな人だし……」
「そう思ってくれるのか? 大和よりも?」
迷わず峻は大きく頷いた。この気持ちはもう、いかなる反証をも撥ねつけ、否定出来ないぐらいに自覚している。
「その通りだよ……自分でも止められないほどレンさんが好き。けど……レンさんはそれでいいの? だって、好きな人がいるんでしょう……?」
直接その事実へ言及することは勇気が必要だったが、それでも弱々しい声で峻が追及すると、レンは吊りあがった目をこれ以上はないほど大きく見開き、信じられないと言いたげな顔をしてみせた。
「冗談だろう……それは終わったことだと、前にも言った筈だぞ、峻?」
「嘘だよ、そんなの……だったらどうして、未だにあの人の傍にいるんだよ!? それにあんな綺麗な人……レンさんがすぐに忘れられるとは思えない!」
思わず前のめりになって峻は反論した。突いた掌が分厚く包帯を巻かれたレンの、見事に筋肉が割れた腹部へ強く触っていたが、レンがそれを痛がる様子はなかった。治療中に医師が何本か注射器を使っていたので、あるいは強い鎮痛剤が今も効いているのかも知れない。……だからといって、患部にいつまでも触れていていいわけはないので、峻は慌てて手を放したが、その手を今度はレンに取られた。
「あのなあ……まったくどこから訂正するべきなんだ、俺は……」
そう言ってレンは大きく溜息を吐く。
「レンさん……」
恨めしそうに峻が見上げると、掴まれた手をすっと引かれて、互いの顔が接近した。間もなくレンは顔を放したが、一瞬遅れてキスされたことに気がついた峻は、次の瞬間に真っ赤になっていた。初めてのキスだった。顔を赤くしたまま峻が俯くと、苦笑をひとつ挟んでレンがひとつずつ誤解を解いていく。
「俺が面食いだと、どうして君は決めつけるんだ? 確かに社長は、そうそう二人と見付けられないような美人だが、俺が惚れたのはそこじゃない。あくまであの人の心意気だ。あれで社長は、俺なんかよりもよっぽど男気に満ちていて、何よりも気高い精神と激しい情熱を持っている。そして誰よりも俺達の祖国を愛しているんだ。そんなところに俺は惹かれた。けど、最初からあの人には先生が隣にいた。俺なんかの付け入る隙は、スタートの時点から1ミリもなかったんだよ。だから告白すら出来なかった……支配人には意気地なしだって馬鹿にされたけどな」
「だったら……別に嫌いになったわけじゃないんじゃん。結局今でも好きなんでしょ?」
峻が口唇を尖らせると、今度こそレンは呆れたように苦笑して、またひとつキスをくれた。
「そりゃあ嫌いになったりはしないさ、今でも俺が仕えている人だからな。今だって誰よりも尊敬してるよ。だが、キラキラ輝いているステージのアイドルや憧れのヒーローを、いつまでも追いかけ続ける大人は、あまりいないだろう?」
「アイドル……?」
微かに頬を染めながら峻はその単語を繰り返す。
「まあ、大袈裟かも知れないけどな……俺にとって社長は、そんな存在に近いってことだよ。しかもそのアイドルには、イケメンで頭が良くてステータスもある、誰が見ても完璧な恋人がいるとわかっているのに、しつこく追いかけまわすほど、俺は犯罪的なストーカーじゃない。こう言ったら理解してくれるか?」
「ええっと……恋人って……ひょっとして、あの背の高い白人の……」
昨夜自販機に隠れて見守った、『ティアモ』の裏口前の光景を峻は思い出していた。あのとき、とても美人だと思った彼らのボスの少し後ろで、彼に寄りそうように立っていた男……リュウという少年が先生と呼んでいた、あの長身の男が、つまり彼の恋人ということだろうか。言われてみると、二人の間には、とても自然でいて、誰も付け入る隙がないような空気があった。
「まあ性格には白人じゃなくて、アルシオン人クオーターのカミシロ人だがな。先生には誰も勝てないよ。……いや、社長が溺愛している、彼の弟だけは例外かもしれないけどな……。いずれにしろ、到底俺なんかが出る幕じゃないんだよ」
そういって肩を竦めるレンが、それでもやはり少し不貞腐れているように見え、峻はまた口唇を尖らせた。
「結局悔しいんじゃない。やっぱり、まだ好きなんじゃないの?」
「君も大概しつこいなあ……そりゃあ、気付いたときにショックがなかったわけじゃあない。相手は手が届かない孤高の存在って言ったって、多少は恋心を刺激してくれた人なんだから。けど、幸い俺はもっと現実的に物事が見えてるし、いつまでも叶わぬ恋を追い求めるほどロマンティストでもない。あのなあ……しつこい君に、そろそろ俺から反撃させてもらうぞ。俺のささやかな過去の恋愛が許されないっていうなら、君は一体なんなんだ? 君は振られたと言いつつ、直後にそいつへ身体を許し、瑞穂(みずほ)君と仲睦まじく歩いていたと言っては、ショックも顕わに項垂れていた。好きな子の手作り料理を味わいながら男心を満足させていた俺の目の前でだ。残酷じゃないか。そっちの方がよっぽど生々しい恋愛だとは思わないのか?」
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