ある日峻は母に出前を頼まれて、商工会議所に行った。
「毎度ありがとうございます」
  4人分の弁当を会議室の長机に置き、代金を受け取る。
「お父さんにも宜しくね」
「はい」
  特徴的な丸顔に笑みを返し、会釈をして部屋を出た。
  相手はヒノデ町会長にして、ヒノデ商会社長の氏森正平(うじもり しょうへい)という。彼は父、要の友人でもあり、商工会議所で開かれる会合で彼が幹事を務めているときには、必ず人数分の弁当を注文してくれる。大抵3人から多くて8人前と、けっして大口ではないものの、それでも細々と営んでいる『ひもり』にとっては、ありがたい常連顧客であった。
  人の良さそうな初老男性だが、自宅の道場で弟子に格闘技を教えるときは、一転して厳しい師範の顔になるという。幼少のころ、身体の小さな峻の発育を心配した父に無理矢理連れられ、氏森道場へ放り込まれそうになったことがあった。道場一の猛者だと紹介された少し年上の相手は、齢5歳だった峻の目にも理想的な美少年に見えた。しかし直後に見せられた模範試合で、師範から寝技を仕掛けられた少年の脚が、あらぬ方向へねじ曲がり、遂には道着の下で膝から先が折れてしまった光景を目にした峻は、その場で火が点いたように泣き喚き道場から逃げ帰ったのだ。その後、道場がある度に、激しく嫌がる峻を見兼ねた母が父を説得し、結局ろくに通うこともなく退会となった。
  ちなみに、あとから聞いた話によると、峻にトラウマを植え付けた骨折少年は、元々義足で、その日、技をかけられた瞬間、ソケットが外れただけであったらしい。日頃は道場で格闘技用の専用義足を使用している為、そのようなことにはならないのだが、この日は新入りの峻が来るというので、世話係として呼び出されて、急遽学校から直行してくれたというのだから、皮肉な話である。
  後日、街で遭遇したこの少年が、お嬢様学校として有名な城南女子学園の制服である純白のセーラー服を着ていたときには唖然とした。何かの罰ゲームだろうかとも疑ったが、鈍くさい性格にも思えない。今考えると、てっきりお兄さんだと思っていた彼は、実はお姉さんだったのだろう……そう考えると、現在は同性愛者を自認している峻の初恋は、結果的に異性愛だったことになる。
  商工会議所を出て、入り口に駐輪していた自転車に乗る。そしてホウライ橋方向へ向かう為、交差点で信号待ちの車列に並んだ。
  まっすぐ帰宅するのであれば、高架になっている市営環状線沿いにアオガキ川へ向かって走った方が早いが、この日は母から昆布や本味醂の買い物も頼まれていた。大抵の食品ならスザク駅前にあるマルネイストアで買った方が早いし安い。だが店で使う食材に限っては、決まった専門店以外で買うことが許されない。そのためホウライ橋付近の酒屋へ寄ったあと、次は郵便局の裏にある昆布屋に回り、最後はヨミザカ駅前商店街の八百屋と精米店で配達注文してからやっと帰宅である。
  目の前の赤信号から反対側の歩行者信号へと視線を移した。
「やっと赤か……」
  続いて矢印信号が点灯し、右折や左折の車輛が先に交差点へと進入する。長い待ち時間にやれやれと溜息が出る。信号を無視した歩行者が駈け足で横断歩道を渡りきる。おかげで急ブレーキを余儀なくされた車がクラクションを鳴らしながらそのすぐ後を横切った。危なっかしい歩行者の若い女性は、大きな紙バッグを肩から揺らしながら、素知らぬ顔で斜め向かいの真新しいファッションビルへと入って行く。
「あ……」
  同じファッションビルのショーウィンドウ前に知った顔を発見し、峻は思わず自転車から身を乗り出した。背後で急かすようにクラクションを鳴らされる。
「わ、……ごめんなさい」
  前を見ると、目の前の信号が青に変わっていた。僅かに中央よりへ陣取っていた峻の自転車は、後続車輌の走行を妨害している。ペダルに足を掛け、コースを左に修正しながら交差点へ入って行くと、すぐ傍らを車が追い越して行った。
  交差点を渡りきったところで歩道へ乗り上げて自転車を止める。そしてもう一度ビルの前を振り返ると、顔見知りの相手は角を曲がって商店街へと入って行くところだった。信号が変わるのを待って追いかけようとした峻は、自転車を方向転換したところで、ペダルを踏む足を止める。
「大和……?」
  声をかけるだけのために、わざわざ交差点を渡ろうとしていた目的の相手は一人ではなかった。見慣れた制服姿のすぐ隣に、彼より小柄な相手が寄り添っている。
  白いTシャツと紺色のデニム姿はほっそりとしており、肩まで伸ばした黒髪は、一見して男か女かわからない。だが、遠目に見てもその横顔はとても綺麗で、何よりも向こう側を歩いている大和が、相手の肩をしっかりと抱き寄せるようにして熱心に話しかける様子が、ペダルを踏もうとする峻の足に強いブレーキをかけていた。



「今日は紅ショウガ入りか……いてっ」
  背後から伸びてきた手を、肉厚で大きな手がパシリと音を立てて跳ね除けた。
「しつこいですよ、支配人」
「ちょっとぐらい構わねえじゃねえか、減るもんじゃなし」
  赤くなった手の甲を擦りながら、姿勢を正した紅葉が恨めしそうに、目の前の大きな背中を睨みつけた。
「明確に減ります」
「なんだよ、3つも入ってんだから、一切れぐらい寄越せっての。ケチケチしやがって」
「これは俺の為に作られた卵焼きだから、そういう問題じゃないです」
  綺麗な箸遣いで半分に割った紅ショウガ入り卵焼きを、レンが口へ運ぶ。頑なに自分の弁当を死守する男に苦笑しつつ、ソファの背凭れへ腰掛け、紅葉はスーツの懐から煙草を取り出した。目の前で食事している男に気遣いはゼロだが、喫煙しているところを見たことがない、恐らくは非喫煙者のレンもまたそれを気にする様子がない。ここでは日常的な光景なのだろう。
「だってよー……。ん? ……どうかしたのか峻君?」
  煙草に火を点けながら紅葉は、さきほどから黙りこくっている連日の訪問者に声をかけた。
「あっ……、ええと……なんでしたっけ?」
  話を聞いていなかった峻は、突然名前を呼ばれて、煙草を吸っている相手に、顔を赤くしながら視線を向ける。
「いやあ……別に質問ってほどのもんじゃねえが。それとも、ひょっとして何かあったのか?」
「えっ、ああ……大したこと……じゃなくて、別に……」
  軽い気持ちで質問をした紅葉は、煙草を吸いながら片眉をクイッと上げる。レンの向かいに座している峻は、目を見開いたかと思うと、次の瞬間には視線を彷徨わせ、顔を赤くしながら動揺し始めた。紅葉は溜息をともに長く煙を吐いた。
「何かあったんだな」
「ええと……」
  咥え煙草でローテーブルの向こう側へ周りこみ、少年の隣へと腰を下ろして顔を覗きこむ。
「聞いてやるから話してみろよ」
「その……」
  もともと頭の回転が遅く、それほど意志が強いわけでもない峻にとって、間近で強い視線を突きつけられながら受ける追及を躱すことは困難に思えた。それに対し、自由気ままな十数名のホステス達や個性的な従業員達を取りまとめている紅葉にしてみれば、気の弱そうな若い相手の口を割らせることなど造作もない。二言三言、躊躇いのための意味をなさない言葉を繋いだが、やがて峻は自分が放課後に、マホロバ駅近くで目にした光景を口にした。
  迷いながらもぽつぽつと、ときおり紅葉に要点を纏めてもらい、確認されつつ打ち明けた話は5分ほどに及び、気が付けば目の前で食事をしていたレンが、食べ終えた弁当箱を丁寧にビニールの手提げ袋に戻し、湯呑みで口を濯いでいる……その表情は心なしか固い。
「つまり、その相手ってのが君の想い人ってわけか」
  紅葉に確認されて、峻は曖昧に首を苦笑しつつ頷いた。
「ええと……まあ、そうです」
  そうは言っても、峻は既に振られている。考えてみれば、今さら大和が誰かと寄り添っていたからといって、傷付く道理はないのだ。
「けどさ、一緒に歩いてたからって、何も付き合ってると決まったわけじゃあないだろ?」
「そうかも知れないけど……好きな子がいるって言ってたし」
  あの日の放課後、生徒指導室の前で言われた言葉は、今でも思い出す度に峻の胸を疼かせる。
「……なるほどな、相手の奴が、その好きな子かも知れないってことか」
  毛のない頭を掻きながら、紅葉に話を纏められて、峻は息を呑んだ。
「そういうことなの……? そっか、あの子が大和の……」
「大和?」
  湯呑みをテーブルへ戻しながらレンがその名前を繰り返した。
「なんだ、そういう話じゃなかったのか?」
「わかんないけど……でも、そうだよね。あの子が好きな子だったんだ……あんな綺麗な子が相手じゃ、勝ち目なんてないじゃん……ちょっと寝たぐらいで舞いあがって、馬鹿みたいだ……」
  峻が視線を彷徨わせ、目を潤ませながらうろたえる。
「おいおい、もう寝てたのかよ。っていうか、相変わらずいい加減な野郎だな。つまり、ヤることヤッといて、実は好きな相手がいますって打ち明けてきたわけだろ? やめとけ、やめとけ。碌な野郎じゃねえぞ、そんな男は」
  まるで相手が誰かを知っているような紅葉の言葉に違和感を覚えながら、それでも峻は馬鹿正直に事実関係の誤解を訂正せずにはいられなかった。
「そうじゃなくて、振られたのは告白してすぐだよ。けど、そのあとで一緒にカラオケ行って、そしたらいい雰囲気になっちゃって、部屋が見たいって言われたから、連れて帰って、で、その……」
  話しているだけでも、己の優柔不断さが嫌になる。
「迫られて断り切れなかったか?」
「あ……ええと……」
  恥ずかしさに顔を赤くしながら、頷くと、なぜか涙が零れ落ちた。
「まあ、仕方ないんじゃね? 好きな人が歩み寄ってくれたなら、応えたい、もっと近づきたいって思うのが人情だろ。それは完全に相手の男が悪い。っていうか、自分から振った相手を直後に誘う神経がどうかしてる。ヤりたい盛りなのは、わからんでもんないが、節操なさすぎだ」
「俺、馬鹿だよね……自分が恥ずかしい」
  ポンポンと頭を優しく叩かれ、峻はますます気弱になり、涙が止まらなくなった。
「峻君はただ相手に振り向いて欲しかっただけだろ? 当たり前の情動だよ」
「でも、寝たりするんじゃなかった……」
  目が覚めると、すでに大和は帰っていた。あの虚しさは、今でも思い出す度に鼻の奥が痛くなる。そして翌日にはメールを無視された。もともとあまり登校して来ない大和とは、以後、まともに会話も出来ていない。考えれば考えるほど、自分が大和に弄ばれたのだという答えしか出て来ない。それも、はっきりと振られた直後にだ。情けなさと悲しさでせつなくなる。
  ぐいっと肩を引き寄せられる。もう片方の相手の手が峻の髪を乱暴に掻き混ぜた。
「よしよし。辛かったな……俺が優しく慰めてやろうか?」
「支配人っ……!」
  不意にテーブルの向こう側から、いつになく強い声が聞こえ、視線を向けると、珍しく顔をやや赤くさせたレンが、彼にしては見開き気味な目でこちらを睨みつけている。
「レンさん?」
  すぐさま峻は、本日の弁当メニューを頭に思い浮かべる。だが酒類を使ったメニューはなかった……ような気がする。しかし、作ったのは父であり、気付かないところで、例えば煮魚などに酒が入っていたのかもしれない。それにしても、レンのような大柄な男が、料理酒ごときで顔を赤くするのは、どうにも不似合いだ。
「どうしたレン?」
「ですから……手を……」
「手がどうかしたか?」
「へ?」
  訊き返しながら、なぜか今度は自分の手を握りしめられ、峻は紅葉の横顔を見上げる。距離が近すぎて表情はよくわからないが、声を聞いている限り、どう考えても楽しんでいるようにしか感じられない。
「ですからっ……」
  それに対してレンは、ますます身を乗り出した。こちらは興奮しているようだ……父は料理酒と間違えて、煮魚にテキーラかウォッカでも入れてしまったのだろうか。
「えっ……?」
  さらに隣へと強く身体を引き寄せられ、峻は目を丸くする。
「そうだ峻君、いいことを教えてやろう」
「なんです?」
「俺の部下に、デカイ図体をして未だに中学生並みの恋愛しか出来ない野郎がいるんだ」
「デカイ図体」
  紅葉の部下で大柄と聞かされ、峻はすぐさま目の前に視線を戻した。レンは相変わらず強くこちらを睨んでいる……というより彼の上司を睨みつけているのだろう。部下の無言に近い非難などどこ吹く風だと言わんばかりに、紅葉は話を続けた。
「彼は最近まで、年上の相手に叶わぬ恋をしていた」
「え……」
  突然始まった恋愛談議に峻は大きく動揺した。
「相手は俺達のボスだ……俺の目から見ても非の打ちどころがない別嬪で、外見以上に精神が美しい。まあ、ちょっとばかし気は強すぎるけどな」
「ちょっ……何を言い出すんです、突然……」
  今度こそレンはソファから腰を上げて立ち上がった。だが彼らの間で上下関係は絶対らしく、上司に掴みかかる気はないようだ。その代わり、火が出そうな程その顔は真っ赤に染まっており、両手には強く握り締めた拳が作られている。それらの全てが、紅葉の曝露が真実であることを物語っていた。
「レンさんの……好きな人……」
  考えもしなかった。それどころか、毎日こうして送り届ける弁当を……その中に入れた卵焼きを、大事に食べてくれるレンが、あるいは少しでも……自分を想ってくれているのかもしれないと……そんな想像にどこか期待をしていたのだと思い知らされる。
「けどそいつは、自分の思いをぶつける勇気すらなかった。だから未だに中学生以下の恋愛しか出来はしない」
  話している間に、紅葉の使用する形容が中学生並みから中学生以下へと降格していた。
「放っておいてくださいよ……。大体あの人にはちゃんと先生がいるし、べつに俺はもう……」
「そんなこと言ってんじゃねえっての」
「先生……?」
  話のなりゆきで、その先生なる人物がレンの想い人の相手であることは峻にもわかったが、峻の問いかけに具体的な返答はなかった。いつのまにか日頃は仲が良い『ティアモ』の二人は、峻の存在も忘れたかのように言い合いを始めていた。
「もう終わったことだって言ってるでしょ。今さらそんな話をこんな時に……」
「だーかーらー、そうやって逃げ腰な態度が自分も相手も不幸にするって、なんでわからないかねこの野郎は」
「何の話をしてるんです!?」
「自虐思考もいい加減にしろって言ってんの。自分が身を引けばいいって思ってんのかもしれねえけど、そういう態度が愛する人までも不幸にすることだってあるんだぞ? お前が思ってるほど、皆が皆人種の違いなんて気にしちゃいねえよ。そういう物の考え方は、相手にだって失礼だ」
「……俺の態度が、失礼に当たったのだとしたら、それは謝ります。けど、俺は本当にもう、社長のことは……」
  言いかけて不意にレンが言葉を切った。
「あ……、すみません」
  視線が自分の鞄に注がれていることに気付いた峻は、慌てて鞄から携帯を取り出す。珍しい父からのメールだった。内容はすぐに帰れという簡素なもの。
「呼び出しか?」
「うん……その、ごめんなさい」
  紅葉に尋ねられ、応えながらそそくさと立ちあがる。深刻になりかけていた会話に水を差したようで気不味かった。
「いや、こっちこそなんだか悪かったな。もっとちゃんと相談に乗ってやるつもりだったんだが、わからずやのニブチン野郎に説教する方が先になっちまった」
「いえ……。それじゃあ、お邪魔しました」
  荷物を纏め、立ちあがると二人にお辞儀をして出口に向かう。
「峻君」
  通路へ出たところで呼び止められて振り返ると、気不味そうな顔をしたレンが追い掛けて来ていた。
「レンさん……」
  この人にも好きな人がいる……その事実は、思った以上に峻を動揺させた。
「時間がないだろうから、単刀直入に言う。終わったことをあれこれ言ってもしかたはないが、そういうのは俺は賛成できない」
「えっと……何のこと……」
  真面目くさった顔で、突然受けた批判の正体について、峻はすぐには思い当たらなかった。
「もっと自分を大事にしろ。碌でもない男に、簡単に騙されたりするんじゃない。……君が傷付くのを、俺はもう見たくはない」
「レンさん……」
「じゃあ、……お父さんが心配しているだろうから、早く帰った方がいい。呼び止めて悪かった」
  大柄な男はそれだけ言うと、背を向け身を屈めるようにして通用口の向こうへと戻って行った。
「なんで、今さら……」
  レンから気遣われて強く峻の心は揺れ動いている。
「俺……ひょっとして、レンさんのこと……」
  思いの変化に峻はようやく目を向け始めざるを得なかったが、レンの気持ちは自分へ向いてはいないのだ。
「だからレンさん、ちゃんと好きな人がいるじゃん……」
  たった今、明かされた現実を思い出し、峻は自分を戒める。また同じことを繰り返すのかと、自分に呆れそうになる。それでも、こうして峻を追い掛けてくれたということは、あるいは自分のことも少しは思ってくれているのだろうか……駄目だと知りつつ、だが甘い予感に縋ってしまう自分を止められない峻だった。

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