「ただいま」
  暖簾の外れた『ひもり』に入るなり、峻は待ち構えている父に呼び寄せられる。
「峻、ここへ座んな」
「なんだよ……」
  いつになく気難しい顔をしている父は、胸の前で腕を組みながら、カウンターの奥から自分を睨みつけている。
「鞄の中を開けて見せろ」
  言われた言葉に心臓が跳ね上がりそうになる。
  中にはたった今『ティアモ』から回収してきた、空になった弁当箱と代金が入っている。代金については、こまめに息子の小遣いをチェックする父親でもないため、追及される可能性は低いが、弁当箱を見られては誤魔化しが利かないだろう。
  レンが弁当を残したことは一度もないが、仕切りのある黒い樹脂に残された煮魚の餡や、酢の物の擂り胡麻を見ただけで、作った父には一目瞭然だ。だとすれば、その弁当をどこでどうしたという話になる。自分が外で食べたことにしようか……しかし、そんな嘘が果たして父に通用するだろうか。いや、厳しい父の表情を見れば、概ね状況を把握しているからこそ、こうして峻を呼び出し説教をしようとしているのだろう。
  峻の行動は、父にこそ隠れていたが、それほど神経質に避けていなかった母には何度か厨房から出入りするところを見られている。母が告げ口するとも考えられないが……。いずれにしても、どうにかして逃げ切らないといけない。
「嫌だよ、持ち物検査なんて、学校じゃああるまいし……ごめん、俺約束があるからすぐに行かないと」
  踵を返して、再び出口へ向かおうとした。
「待てって言ってんだい……!」
  突然、肩に強い圧力がかかった。
「ちょっと……何してっ……」
  振り返ると、カウンターの向こうから手を伸ばした父が鞄を掴み、無理矢理中へ手を突っ込んで来た。
「やめろよっ……嫌だっ」
  止める間もなく、あっという間に中身が曝け出された。父からのメールが表示されたままの携帯が足元へ転がり落ち、財布や音楽プレーヤーが、綺麗に拭かれたカウンターで踊る。そして肝心のビニール袋は厨房へと落ちてしまった。身を乗り出した峻の手は空を切り、袋はカラカラと軽い音を立てて床を頃がる。落ち着いた素振りでその包みを父が拾い上げ、封を解いた。
「こいつを持って今までどこで何してやがった」
「父ちゃんに関係ないだろ」
「何だとっ……」
  幕の内弁当箱を持つ父の手が勢いよく宙で上がり、峻は思わず目を閉じた。
「よしてくださいな、乱暴は……っ」
  投げつけられると思った空き箱は、しかし父の拳に固く握り締められていた。いつのまにかカウンターの向こうに現れた母が、必死に父の身体に縋りついて、体罰をさせまいと抑えてくれている。
「母ちゃん、放しやがれ……こいつには、ちゃんと叱ってやんねえと」
「喧嘩になるだけでしょう……ごめんね、峻。母ちゃんが全部話したのよ」
「どうして……」
「だって、このまんまだとあんた、どうなるかわかんないんだもの。……レンさんはそりゃあいい人よ。母ちゃんだって、あの人に助けて貰ったんだから、わかってる。でもね、深入りしちゃあだめ。あの人は、あんたと住む世界が違うのよ」
「母ちゃんもそんなこと言うのかよっ……」
  理解者だと思っていた母の、信じ難い乱暴な発言だった。キャバクラの用心棒という肩書は、それほど差別されないといけないのだろうか。
「じゃあ聞くけど、あんたはあの人に近づいて、これ以上どうなりたいのよ」
「どうって……それは……」
  果たして峻は、レンとの関係をどうしたかったのか……それを具体的に考えたことはこれまでなかった。しかし先ほど紅葉から明かされたレンの恋愛話は、少なからず峻を傷つけた。その意味に峻は気付かざるを得ない。峻はレンに恋心を抱いているのだ。そして峻の行動を見ていた母は、そこに危険を感じて、父に相談した……そういうことだ。
「おい、いい加減に放しやがれ」
「放したら、あなた乱暴するでしょう」
「しねえから、放せってんだ……ったく、俺を何だと思ってやがる」
「あなたほど短気な男は、それこそアグリア人ぐらいしか思いつきませんよ」
  呆れた声で言いながらも母が手を放すと、わざとらしく峻の前で父が肩の筋を解してみせる。しかし、母の介入で多少気持ちが落ちついた父は、気不味そうに咳払いをすると。
「祖母ちゃんの店が火事で無くなったって話は、前にしたな」
「それがどうしたんだよ」
  藪から棒に祖母の話をされて、峻は面食らった。
「跡地が何になっているか、お前は知ってるか?」
  言われて住所を思い出す。それは昼間に訪ねた辺りであるマホロバ駅前商店街の一角であり、大きなビルが並んでいる場所だった。住所地にはマルネイストアの経営母体が入った不動産会社の看板が出ており、その一階は事務所だ。もしも噂が合っているとすれば、カミシロ人が近づくのも二の足を踏むような場所である。
「ブトウレンの……事務所……だろ?」
  ブトウレンとはマホロバでもっとも大きなアグリア人マフィアである、『ブリュン統一連合』の通称であり、下部組織の通称チーセダことターリーチーセダは、この街で殺人や強姦事件を頻発させている、凶悪な組織だ。リーダーの男はリヴェ・パジュと言っただろうか……。
  そこまで考えて峻は思い出した。先週この『ひもり』へやってきた3人組のアグリア人……彼らのうち、リーダー格に見えた、全身黒レザーで固めている、もっとも大柄な男は、仲間からパジュと呼ばれていた。今思えば、彼らがチーセダだったのだろう。だとすると、あのときレンが助けてくれなければ、一体自分達がどうなっていたかもわからない。
「結局放火の犯人は逮捕されなかった。そしてあの場所での営業許可は下りなかった……これだけ言ったらどういうことか、頭の悪いお前にもわかるだろう。あの放火犯はブトウレンの差し金ってことだよ」
「わかんないじゃん、そんなの」
  その可能性が高いかもしれないが、父の話だけでは決め手に欠ける。そしてそれは、アグリア人を嫌う父の偏見によるような気がして、峻は同調を避けた。
「何言ってやがる!」
「父ちゃん興奮しないで下さいな」
「わかってるっ……」
  再び顔を赤くしていた父を母が止めながら峻に視線を向けた。
「あのね、実は犯人が捕まっていたのよ……」
「えっ?」
  不意に母から突きつけられた事件の新説に峻は目を丸くした。ならばどうして逮捕されなかったのだろうか。
「あの時間帯、現場で目撃証言がいくつもあったの。拘束されたのは、アリバイのない大柄なアグリア人の青年。アパートの自室には真新しい空の灯油缶……現場に残された靴跡まで一致していた……こんなのどう考えても犯人じゃないの。なのに、証拠不十分で釈放されたわ」
「馬鹿な……」
「ブトウレンから金が回ったんだよ……あるいはOGPかもしれんけどな。どっちにしろ、あの事件は訳のわからねえ理由でもみ消されちまったんだ。そこにあんなビルが建っていやがる……警察もブトウレンも、何もかも裏で繋がってやがんだよ。こっちは祖母ちゃんを殺されたってのに……アグリア人ってのは、そういう連中なんだ」
「嘘……」
  解き明かされた祖母のやるせない最期に、そして学校でこれまで教えられ、抱いていた哀れなイメージと、かけ離れたアグリア人の姿の落差に、峻はしたたかな衝撃を受けた。
  かつてカミシロ人はアグリア人を搾取し、迫害して、遂には30万人もの罪のない人々を殺戮した筈だ。カミシロ人は悪でありアグリア人は弱者……峻はそう信じていた。……いや、果たしてそうだろうか。
  現実に耳にし、目にするアグリア人達はカミシロ人よりずっと身体が大きく、短気で粗暴だ。このカミシロにもアグリア人マフィアはいくつも存在し、チーセダは中でも凶悪だという。この『ひもり』にチーセダがやってきて店内を荒らされたときの恐怖心は、今でも思い出す度に峻の身を震えあがらせる。
  しかし、そのような事件を体験し、目にして耳にするたび、習った知識が、込み上げそうになる憤りに蓋をする。カミシロ人はかつて彼らに酷いことをしたのだから、何をされても文句は言えないのだと……、30万人の民間人殺害は立派なジェノサイドだ。
  それほどの大罪を犯した秋津叢雲(あきつ むらくも)に怒りを覚えるとともに、しかし同時に妙な感動もあった。あれだけ粗暴で体格差もあるアグリア人に立ち向かい、いくら軍人達とはいえ、よくぞ小さなカミシロ人が勝てたものだと。少数のアグリア人を相手に手も足も出ない現在のカミシロ人とは、どこかで入れ替わったのではないかとすら思えるほど勇敢ではないか。
  ……ふと、気になることがある。世の中にはホクマ大量殺戮事件を否定する人々がいる。彼らは愚かで卑怯な歴史修正主義者だと海外から非難する声もあるが、果たしてそれは聞くに値しない荒唐無稽な妄言と一笑に付して良いのだろうか。そもそも歴史を修正することの何がいけないのだろう。もしも間違いがあるのなら、それは修正されて正解だ。
  いずれにしろ、歴史問題は難しすぎて峻にはよくわからない。そして、ホクマ大量殺戮事件の真偽や、アグリア人の悪辣ぶりが真実だったとして、それが一体、今ここで何の関係があるというのだろう。
「それがどうしたのさ」
「だからレンさんはどう見ても……」
「アグリア人の血が入ってるっていうんだろ? 最初からわかってるよ。だから何? レンさんが祖母ちゃんを殺したわけじゃないだろ!」
「か、母ちゃんは何もそんなこと……、ただ、アグリア人はカミシロ人と違って、血の気が多いし、色々と……その、もしも付き合っていくうちにそういうことになると、痛い目に遭うのはあんただから……そういう犯罪も多いし……」
  何やら言いにくい話をしているように、母は少々顔を赤くしながら言葉を濁したが、まるでレンを犯罪者扱いされたような気がして峻はますますむきになった。
「レンさんがいつ犯罪者になったんだよ、無茶苦茶なこと言うなよ!」
「そうじゃなくて、母ちゃんはただ、あんたを心配して……」
「こらてめぇ、母ちゃんにデカイ声出すんじゃねえっ」
「父ちゃんも母ちゃんも知らないっ! 馬鹿っ!」
  尖った声で言い捨てると、カウンターから鞄の中身を無造作に掴み、峻は勢いよくカウンターを横切って部屋へと上がった。

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