初日こそ父が作った店のメニューを適当に組み合わせたが、美味しそうに食べてくれる男の顔を見ていると、段々と欲が出た。店のメニューに紛れ込ませて、自分が作った卵焼きや野菜炒めなどの素人メニューを、一品か二品増やしていく。レンがそれを食べる表情を眺めながら、一喜一憂する峻を、傍で煙草を吸っていた水無瀬紅葉(みなせ こうよう)が、ニヤニヤと笑いながら見ている。観察の目に気が付いた峻は、何を言われるのだろうかと焦ったが、紅葉は意味ありげに笑うだけだった。
紅葉はこの店の支配人だという。オーナーはまた別の男であるため、二人とも雇われの身だが、立場でいえば紅葉はレンの上司でずっと年上のようだ。はっきりとした顔立ちを持つ美丈夫だが、見事なまでのスキンヘッドが、実に強いインパクトを見る者に与える。
最初は剃髪していると思った頭部の地肌が、よく見ると毛根すらも見えないことに気がついたとき、人の頭をまじまじと眺める峻に気を悪くした様子もなく、T弾の影響で体毛を全て失ったのだと紅葉は打ち明けてくれた。即座に無礼を詫びたが、紅葉は笑い、逆にこの頭のお蔭で今の仕事をしていられるのだから、感謝しているぐらいだと言った。その表情が本当に嬉しそうだったので、峻は返す言葉に困った。しかし、考えてみればT弾で多くの人命が失われ、今も深刻な後遺症に苦しんでいる人が少なくないことは峻も知っている。そう考えれば紅葉の言葉もわからなくはない。だが、自らもT弾被害者でありながら、感謝しているとまで言える紅葉の強さには言いようのない感動を覚えた峻だ。
そして、全ての体毛を失った……つまり、彼の男らしい顔を形作る眉や睫毛は人工的に移植されたものであることに二重の驚きを禁じ得ず、またドレスシャツやスラックスの下、あるいは下着の中はどの程度のものがどうなっているのだろうかと想像しそうになり、峻は慌てて首を振った。そんな峻の反応をどう捉えたのだろうか。綺麗に空けられた番頭箱を片付ける峻に紅葉が声をかけてくる。
「誰かの為に作ると、上達が早いだろ」
「え……?」
「最近は焦げることもないみたいだし、穴も空かなくなった。親父さんやお袋さんの料理と並んでも遜色ないぞ」
「ちょっ……ちょっと……」
冷やかすように言われ、峻が焦って周囲に視線を巡らせる。
「ハハハ、大丈夫だ。レンはトイレ掃除に行ったから、あと五分は戻らないぞ。水を流す音が聞こえるまでは平気だから安心しろ」
「いつからバレてたんです……?」
「まあ、最初は確かにわからなかったみたいだけどな。……けど、煮物や焼き魚に混じって涙ぐましい卵焼きや微笑ましい野菜炒めが混じってると、な……」
紅葉がニヤニヤと笑いを浮かべながら、語尾を濁す。峻は顔から火が出る思いだった。
「あの、それってやっぱり、レンさんも……」
「どうだろうなあー」
言葉ははぐらかされたが、質問は肯定されたも同然だ。食べている張本人が気付かないわけはない。
「ええと、いつから……」
「聞きたいか?」
「いえ、いいです……」
厨房の料理にレンが自作の卵焼きを入れたその日から気付いているに決まっている。それでいて何も言わないレンも、見ていた紅葉も今まで黙っていたのだから人が悪い。峻は少しばかり恨めしい気持ちになって、口唇を尖らせた。こうなると、明日から弁当を持ってくるのはどうしようかと考えてしまう。だからといって、自分が急に来なくなるとレンが困るのではないかと心配にもなる。そこまで考え、ふと気が付いた。
考えてみれば、ここへ峻が通うようになってから、すでに一週間が過ぎている。それまでレンが食事に通っていた『彩』の改装工事が、具体的にいつまでかかるのかは知らないが、そろそろ新装開店後の営業がスタートしていることだろう。何も自分が、律儀に弁当を持って『ティアモ』へ通わなくても構わないのだ。
それに、初日こそ確かに突然運ばれてきた弁当に驚き、峻の勢いに呑まれるように黙って食べてくれた。だが、翌日も同じように持参すると、レンは父を気にしてやめた方がいいと諭した。それでも峻が、せっかく持ってきたのにと恨みがましく口にすると、傍で見ていた紅葉が「だったら料金を支払えばいい」と口を挟んだのだ。自分の勝手な行動で代償を貰うことに抵抗はあったが、それでここへ通うことが許されるなら、それでもいいと峻は思った。そのうちに欲が出てしまい、父や母が作るプロの料理に少しずつ自分の作品を紛れ込ませるようになったのだ……考えてみれば、随分と大胆な真似をしていた。
「ごめんなさい……返金するべきですよね……」
もう、ここにも来れないかもしれない。
「一昨日はマヨネーズ入りで、その前はチーズとパセリ入り……昨日はプレーンだったらしいが、ふんわりしていて美味しかったって言ってたぞ」
「えっ……?」
「あいつさ、峻君が帰ったあと、卵焼きの話しかしねえんだよ。あんなに美味そうで種類豊富なメニューがてんこ盛りに入ってんのに、口から出てくるのは本日の卵焼きの感想ばっかり……まったく、勘弁しろってな。……意味わかるかい?」
わからないわけがない。レンはもちろん、弁当箱に入った峻の料理に気付いていた。
最初に入れたのは卵焼き。翌日には野菜炒めも入れたが、箸の進め方を見ているうちに、彼があまり塩辛い野菜が好きではないことに気が付き、野菜炒めはやめた。アレンジを変えることも考えたが、峻は塩コショウ、あるいは醤油以外の味付けを思いつかない。逆に卵焼きは好きらしく、レンは最初から美味しそうに食べてくれた。だから峻は、試行錯誤をしながら卵焼きのバリエーションを増やしていった。そして上達している自覚はあったが、だからといって両親の料理に肩を並べるとまで自惚れるつもりはない。バレるのは時間の問題だったし、実際は峻の料理など混じった瞬間からそうだと気付かれていたのだ。だがレンも紅葉も責めることはなく、それどころかレンはその素人料理を嬉しそうに紅葉へ語って聞かせてくれていたのだ。
「喜んでくれてた……そう思っていいんですね……」
峻が言うと。
「まあ、惚気られる方はたまったもんじゃあないけどね」
今度こそ峻は顔が真っ赤になった。帰りには、今度全部自分で作ってみたらどうかと勧められたが、さすがにそこまでの勇気はなかったし、まだまだレシピ不足もいいところだった。それでも、いつかはちゃんと自分が作った料理だけでレンの胃袋を満たしてみたいと峻は想像していた。
料理を作ることが楽しい。誰かが自分の料理を食べてくれることが嬉しい。最初はそれだけだと峻は考えていたが、なぜか紅葉からも注文を受けて弁当を二食持って行ったときのこと。
「あのさあ、ひとつ訊いていい? なんでメニューが違うのかな」
「一緒ですよ」
「いやいや峻君、違うじゃん! だって、俺の卵焼きは?」
「ここにあります」
「いや、これは出汁巻き卵でしょ」
その日は父が厨房に立っており、『ひもり』自慢の人気メニューである、ふわふわ出汁巻き卵があったので、わざわざ紅葉にだけ入れてやったのだが、紅葉はレンと同じ、峻が作った歪な卵焼きがいいとだだをこねだした。揚句にレンへ交換を申し出て、それをレンが断ったことは、ますます峻を嬉しくさせた。それでも、二切れずつあるのだから、片方寄越せと食い下がる紅葉に……。
「しつこいですよ。この卵焼きは俺の為に作られたのだから、諦めて下さい」
きっぱりとレンが言って、峻はこの上もなく胸が熱くなった。
不思議なことに、あとにも先にも紅葉が注文したのはこれきりだ。
「これだけあからさまに差をつけられるとねえ」
「すみません。けど、紅葉さんも変な人ですね。俺の素人料理を、そんなに食べたがるなんて」
「あいつがどんな顔すんのか、一度見てみたいと思ったからねえ。もう充分満足だよ、ハハハ」
紅葉の悪趣味に呆れつつ、しかしこんなやりとりのひとつひとつを、どこか甘酸っぱいと峻は感じていた。
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