レンが『ひもり』へ通うようになって5日目の土曜日、午前中の授業を終えた峻が帰ってみると、店には母ではなく父の要が入っていた。
「おう、峻お帰り」
カウンターの奥で新聞を暇そうに広げながら、白衣を来た父が声をかけてくれる。
「ただいま父ちゃん。今日はバイト休みなの?」
「祖母ちゃんの命日だからな。お前もさっさと準備しな。母ちゃん待ってるぞ」
言われてこの日が、母の実家が火事で全焼した日だと峻は気が付いた。
『ひもり』はかつてマホロバ駅前で、今よりももっと立派な店を構えていた。ところがあるとき辺り一帯が火の海に包まれ、『ひもり』は店を失った。心ない放火魔による悪戯が原因だというが、犯人は逮捕されず、保険金は出たもののどういうわけか同じ土地での営業許可が下りず、『ひもり』はこの寂れた商店街まで追いやられて今に至るのだという。その時の火事で逃げ遅れた祖母は命を落とし、帰らぬ人となった。
父は元々サラリーマンをしていたが、代々店を守ってきた母の実家に義理を立てて退職し、夫婦そろって看板を守ってくれているのだと母はいつも感謝を込めながら峻に語る。
「うんわかった……あ、レンさんいらっしゃい!」
カウンターの奥へ引っ込みかけて、格子戸を開ける音に気が付いた峻は足を止めると、入って来た新しい常連客に元気な挨拶をする。隣で父も新聞を置くと立ち上がった。
「こんにちは、峻君」
いつもの黒スーツに身を包んだレンがカウンター近くのテーブル席へ近付きながら挨拶を返してくれた。峻は上がり框に学校指定の鞄を置くと、冷水とおしぼりの準備をしながら、レンへ話しかける。
「日替わりでいいよね。今日は父ちゃん特製の肉じゃが定食だよ……あ……」
店へ出ようとして、横からトレイを取り上げられた。
「お前は早く準備しろ、母ちゃんを待たせるな」
「うん……」
そして目が合ったレンに手を振り挨拶をして家へ入ろうとするが、直後に聞こえた言葉で思わず足を止める。
「兄さん、すまねえがこのまま帰ってくれるかい」
「何言って……ッ?」
耳を疑い、性質の悪い冗談かとも思おうとしたが、唯一の客を見据える父の表情は至って真面目なものだ。そもそも、そのような性質の悪い冗談を口にする性格ではない。
言われたレンの表情はわかりにくかったものの、明らかに顔が強張っていることは、最近毎日のように接するようになっていた峻の目にはっきりと見て取れた。
「すみませんが、どういうことでしょうか」
声を荒げることもなくレンが店主に理由を問い質す。
「あんた斜向かいにあるキャバクラの用心棒だな」
「そうですが、それが何か……」
「あんたみたいな男に店をウロウロされちゃあ、こっちも迷惑なんだ。少ないがずっと来て下さる常連のお客さんもいる。そういう人が寄りつかなくなると、うちもやってけなくなる」
「父ちゃん失礼だろ! なんてこと言うんだよ……」
「てめえは黙ってろ!」
「出来ないよ、だってレンさんは俺と母ちゃんの……」
「わかりました……!」
目の前で始まった親子の諍いを止めるように、いつになく大きな声を出したのがレンであることへ、峻はやや遅れて気が付いた。
席を立ったレンは静かに店主へ頭を下げるとそのまま出口へ向かう。峻は慌てて後を追った。
「おい峻、祖母ちゃんの墓参り……」
「父ちゃんの馬鹿!」
せせこましそうに身を屈め、暖簾をくぐり出て行った長身は、まっすぐに横断して向かいの路地へ入ろうとしていた。その先にあるのは、おそらく『ティアモ』の従業員通用口だろう。
店のある曲がり角には電柱が立ち、その隣に自販機が二台並んでいる。手前が清涼飲料水で奥が煙草だが、どちらも品揃えが悪いくせに、妙にマニアックな商品が目に付いた。
清涼飲料水の自販機前あたりで、黒い袖に手をかける。
「待って……」
峻の手にあまる逞しい肘を掴み損ね、仕立ての良い生地の端を指で摘まんだ。戸惑っているような視線がまっすぐに峻を見下ろす。
「峻君……、どうして……」
黒い生地の表面で指を滑らせ、その下にある、峻より一回り以上も大きいように見える手の先の、太く長い指を、子供のように峻はぎゅっと握り締めた。頭の上で軽く息を呑む気配を感じる。
「父ちゃんが……失礼なことを言ってごめんなさい……」
「君は、まさかそれを言う為に……?」
「だってレンさんは、いい人なのに、父ちゃんあんな酷いこと……」
ほんわりと頭の上が温かくなる。見上げると、そこには黒く大きな影が視界を切りとっていた。それがスーツを着ているレンの太い腕だと気付き、その向こうに少しだけぼやけたレンの見慣れた顔がある。
滲んだ輪郭がときおり鮮明に見え、間もなく自分が泣いていることに気付き、慌てて目を擦った。次の瞬間、身を屈めたレンの顔が真正面に下りて来て、峻は驚く。
「優しい子だね」
「レンさん……あ……」
大きな手が顔に向かって、思わず目を瞑ると、固く温かい感触が左右の頬を拭ってくれた。
「もう泣きやんだかな?」
その手が峻の肩の上へ静かに置かれる。
「ああ、うん……ええっと、なんだかつい……わかんないんだけど……」
なぜそこまで感情が高ぶったのか、自分でも理由がわからず、説明がうまく出来ず、峻は言い訳めいた無意味な言葉を重ねた。目の前で苦笑を滲ませているような男の表情は、相変わらずわかりにくかったが、それでも吊りあがった双眸は、穏やかで慈愛に満ちたものだと峻には感じられた。
「じゃあ、もう帰りなさい。こんな風に飛び出して来ちゃあ、駄目だよ」
「けどっ……」
「俺の事なら心配はいらない。いちいち気にしていたら、この国には住んでいられないから」
「だって、酷いこと言ったのは父ちゃんで、レンさんは何も悪くないのに……」
レンの手が肩から再び上に上がり、峻の頬を包んだ。親密さを感じさせる一連の動作に気付き、峻の鼓動が我知れずドキドキと高鳴り始めていた。
「君のその気持ちだけでじゅうぶんだ」
この情動は一体何だろう……自分でそれを追及する前にレンの手がすっと離れてしまう。
「レンさん……」
「お母さんが待っているよ。今日はお祖母さんのお墓参りなんだろう?」
それだけ告げると、目の前の男は踵を返し立ち去ってしまった。間もなく数メートル先にある小さなドアが開かれ、暗い建物の中へと消えてしまう。
その間男が峻を振り返ることはなかった。
「なんだよ、一体……」
肩透かしを食らったような気になり溜息を吐く。だが、なぜそんな気分になってしまうのか、峻にはまだ気付くだけの判断材料が不足していた。
峻も路地を出て『ひもり』へ戻る。
「おかえり」
客のいない店の中では黒いワンピース姿の母が峻を待っていた。
「ただいま。すぐ準備するから」
カウンターに入り厨房を覗くと、相変わらず小難しい顔をした父が、脚立に腰をおろして新聞を広げていた。靴を脱ぎ、上がり框に放置したままの鞄を手に取って二階へ向かう。
勉強机に鞄を置き、緩んだネクタイを締め直しながら何気なく窓辺へ近付く。まだ開店前である『ティアモ』の店頭は無人だ。
峻はネクタイから放した左手を、無意識のうちに顔へ滑らせ頬を包む。己の物と一回りも二回りも大きさの違う分厚い掌が、つい先ほど同じ場所を包みこんでいた……。
「何してんだよ……」
ほんの一瞬だった邂逅を噛み締めるような女々しい仕草へ羞恥し、峻は窓辺を離れると、クローゼットを開け、扉の内側に張り付いているドレッサーの鏡を覗きこむ。紺色のネクタイへ指を掛けながら、少し蒸気した自分の顔色に気付きたじろいだ。
「どうしちゃったんだ、俺……」
自分で自分の顔を見ていられず、天井を仰ぎ、蛍光灯へ視線を移す。そして傘が埃を積んでいることを思い出し、それに最近気が付いたときが、この部屋へ入ってくるなり自分を求めてきた大和と、セックスしている最中だったと思った。あれからまだ一週間足らずだ。
クローゼットを閉め、手探りで髪を整えながら階下へ向かう。相変わらずムッスリとしたままの父に声だけかけて、母と共に店を出た。電車を乗り継ぎ、祖母の墓地がある霊園へ向かう。
母方の実家である日盛家は、今でこそ資産を失い、どの親戚も生活が苦しそうだが、血筋は古く、家柄だけはそこそこ立派なものだ。菩提寺は名前の知れた有名な寺院で、隣接する霊園にも名家の墓が並んでいる。
良い意味でも悪い意味でももっとも目を引くひとつが、秋津家のものだろう。黒御影が置かれたその場所には、かつてスザク拘置所で戦犯として処刑された旧陸軍大将である秋津叢雲が眠っている。あのホクマ大量虐殺事件で、30万人もの罪のないアグリア人達を殺すように命令した司令官の男だ。それほどの大悪人であれば、墓を荒らす勇者の一人ぐらい現れそうなものだが、どういうわけか立派なこの一画は、いつ来ても雑草の一本すらも生えておらず、美しい季節の花々が欠かさず供えられている。
日盛家の墓地はさらに奥まった区画にあり、もっとせせこましい。お彼岸やお盆、あるいは年の瀬といった時期であれば、墓石を掃除するにも、互いに気を使うほど、区割りが小さい。唯一の美点と言えば、場所がちょうど寺院の庭園に接しており、この時期であれば色とりどりの見事な紫陽花が背景に見えることだろうか。
バケツに水を貯め、柄杓で少しずつ掛け足しながら、持参したスポンジで御影石を磨いて行く。その間に母は、来る途中に立ち寄った花屋で買った数種類の花で供花を作りに、峻と入れ違いで水場へ向かった。
墓石の汚れを落としつつ、来る度にいつのまにか新たに芽吹いている雑草を見付けては手を止めて引き抜く。
命日やお彼岸、お盆の時期には、いつもこうして最初に母の麗子と峻が墓参りにやってくる。その後、自分達と交替して父が参るのだ。そのときには墓石は磨かれ、雑草も生えていない。幼い頃はこの順番が不公平だと感じ、全員一緒に来ればいいではないかと母を相手に愚痴を言ったことがあるが、店を空けるわけにはいかないのだからと苦笑で返された。その代わりに、父方の墓参りには、いつも父が一人で行っていることを、峻は最近になって母から教えてもらった。
父の実家は西カミシロのカグツチにあるため、マホロバからは特急を使っても片道4時間以上かかる。峻は幼い頃に祖父母の葬儀で行ったきりであり、母の麗子も数えるほどしか足を運んでいない。不義理を母が気にして、何度か付き添うと言っているのを聞いたことがあったが、そのために店を閉めることを気にして父が遠慮をするのだ。いつだって無愛想で、とても客商売向きの性格とも思えず、峻にとっても気難しく近寄りがたい存在である父の意外な側面だった。
「綺麗になったわね」
一対の供花を両手に母が戻ってくる。峻は掃除道具を片付けに水場へ向かう。戻ってみると蝋燭に火が灯っており、線香の煙が立ち上っていた。
墓前で手を合わせる母と並び、峻も隣へ腰を下ろす。花立てには小菊やカーネーション、スターチスの組み合わせが、綺麗に活けられている。手を合わせながら峻は、レンとの会話を思いかえしていた。
いちいち気にしていたら、この国に住んでいられない、……そうレンは言った。その言葉が何を意味しているのか、今更ながらに峻は気が付いた。彼を追いかえしたとき、父が理由としていたのは、レンがキャバクラの用心棒である一点のみだった。しかしレンは、言葉の裏にある本当の意味を感じ取っていたのだ。
大柄なレンの外見は純粋なカミシロ人にありえない特徴を持っている。その点について直接話してくれたことはないが、やはりレンの身体にはアグリア人の血が流れているのだろう。そして逞しい肉体と眼光鋭い面は、夜の店の用心棒に相応しい。だから父は、おそらくは職業柄体面がよくないとあげつらってレンを追い返した。それ自体、既に差別的なものだが、隠された真意は恐らく、レンがアグリア人の血を引いていることにあるのだろう。そしてレンはそれを理由として一方的な排除を受けることが初めてではないし、差別に抵抗する気はないと言っているのだ。
あの局面でレンが差別に甘んじた理由は、おそらく相手が峻の父だからだ。もちろんお互いに商店街仲間という御近所トラブルを避ける理由もあったのだろうが、それ以上に峻が父親と喧嘩になるぐらいなら、自分が引き下がるべきだと感じたためだ。しかしレンは峻や母にとっては恩人である。
何より、アグリア人だからとか、キャバクラの用心棒だからとか、そういう肩書だけで人を差別することが、峻には受け入れがたかった。だいたい、カミシロ人はかつてアグリア人に酷いことをしたのだから、謝るべきはカミシロ人であってアグリア人ではない筈だ。しかし父を始め多くの大人たちは、粗暴なアグリア人達がカミシロ人を苦しめていると言う。学校で峻達が習った通りなら、なぜ大人達はかつて自分達が虐待したアグリア人を相手にそのような事を言って平気なのか、峻にはわからない。しかし、父がレンに対してとった態度が、まぎれもない差別であることに変わりはないだろう。
意を決した峻は帰宅後、父が入れ替わりに霊園へ向かったあとで、夕食前の準備期間中、店内清掃をしている母の目を盗み、弁当箱を片手に厨房へ忍び込んだ。その足で商店街を横切って路地へ入り、数時間前にレンが姿を消したドアをノックする。この日から峻は、弁当を持ってティアモを日参するようになった。
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