犬山と別れた一時間後、宿泊ホテルから三十分ほども離れた、丸太町通りのバーで瀬川は飲んでいた。
「どうせ嫌われてるってことぐらい、わかってるんですよ……でもね、ときどき優しい言葉くれたりするんです。今日だって、撮影終了後、M池に行くっていうから、付いて行こうかなって思ってたら、『明日も早いから帰れ』って……じっとね、あたしの目見て言ってくれたんですよ。そんなことされたら、ああ、女のあたしを心配してくれてんのかなあって、期待しちゃうじゃないですか……なのに、昼間は急遽決まったラブホの取材で、あたし一人に入らせるんですよ、一人に! ありえます? ……他のスタッフはみんな男ばっかりなのに、女のあたし一人だけ取材させるんですよ? 自分は車でモニター見ながら、好き勝手命令して……」
「はいはい、酷い男よねえ。……ちょっとグラス貸しなさいよ、あ〜あ、こんな零して」
 ゴツゴツとした大きな手が、瀬川から空に近いグラスを奪って、カウンターを綺麗に拭った。
「けどね、ときどき優しいんですよ。今日だって、撮影終了後に、桜田さんとM池に行くっていうから、付いて行こうとすると、『早く帰れ』って……」
「わかったわよ、女のあんたを心配してくれてるって思ったのよね。何回同じこと繰り返すのよ、この酔っ払い。そろそろ終わりにしてくんない? こう見えてウチは十一時半閉店の健全な営業方針なのよ。もう三十分以上も過ぎてる」
 新しく出されたグラスを傾ける。
 きつい言葉のわりに、優しいママだと思いながら口を付けてみると、中身は冷水だった。
「だって、そんなこと言われたら、諦めきれないじゃないですか」
「だったら、さっさと好きだって言っちゃえばいいじゃないの。女なんてね、当たって砕けてりゃいいのよ。玉砕こそが恋の花よ。さっさと告白して木っ端微塵に砕けてらっしゃいな。そしていい男は、あたし達オカマに譲るのよ」
「だって、絶対無理だもの。あたし嫌われてる」
 涙目でカウンターのママを見た。
 落とし気味の照明が形良いスキンヘッドの輪郭を、オレンジ色に象っていた。
「そりゃそうでしょうよ、あんたみたいなグズグズした女」
「でもね……ときどき優しいの。今日だってあたしの目をじっと見て、『明日は早いからもう帰れ』って……」
「いい加減に、椅子から引き摺り落とすわよ。床で頭打って一生失神してらっしゃい」
「それに桜田さんが怖いもの。あの人いつもそう。絶対に水森さんの傍にいて、誰も近づけないの。よく考えたら、今日も最初に『来るな』って言ったの、桜田さんだ……」
「ふ〜ん。じゃ、その桜田って女が、あんたの思い人の彼女なんじゃないの?」
「違うの、桜田さんは男。背が高くて仕事が出来て、イケメンですごくモテる人」
「あんたさ、これ以上ここに居座るつもりなら、その水森でも桜田でも、どっちでもいいから、つれてらっしゃいな。で、あんたはお帰り。大体ウチはゲイバーなのに、なんであんたが一人で残ってんのよ。ウチ女も入店OKにしてるけど、べつに歓迎ってわけじゃないからね」
「あ、ライン……」
「てめぇ、たまには人の話も聞けよ」
 通知音とともに、スマホへメッセージが表示されていた。

 『犬山倫太郎:今日、一人で行かせてすみませんでした。瀬川さん、めっちゃ頑張ってたと思います。また明日。遅くにごめんなさい』

 恐らくラブホテル取材のことを言っているのだろう。監督である水森の言葉は絶対であり、また、後輩の犬山が気にする話でもない筈だが、後からでも瀬川を気遣ってくれる気持ちは嬉しかった。
 時間は十二時十分。明朝はホテルのロビー合流とはいえ、集合時間は七時で、そのまま出発だ。
 返したい言葉は色々あるが、まだ起きているらしい犬山へ返信して、そのままチャット状態へ雪崩れ込むのも却って悪い気がする。かといって、無視も気が引けた。
 酔った頭でぼんやり考え、とりあえず、感謝の気持ちをスタンプで送ろうと思い、犬山の画面を開けて……操作を誤ったと気が付いて、次の瞬間ハッとした。
『瀬川さんっ……?』
 トークを返すつもりが、誤って犬山にラインで電話をかけてしまい、ワンコールで相手が出ていたのだ。
「あ、えっと……ごめんなさい。あたし……え、ちょっと……?」
「なあ、あんたいつまで女一人で待たせるつもりなんだ?」
『はっ? 誰っすか……』
 目の前のスキンヘッドが、すっかり男の声で瀬川のスマホを手に、勝手に話していた。
 いきなり知らない相手にあんた呼ばわりをされて、戸惑っている犬山の声が、スピーカーから瀬川にも漏れ聞こえてくる。
「ちょっと、やめて……」
 慌てて立ち上がり、ママの手からカウンター越しにスマホを奪おうとするが、女としては長身の瀬川とはいえ、ママの肩書を持つ目の前のスキンヘッドはプロレスラー並みの体格をしていて、身長も百九十センチ近く、腕も太くて長い大男だ。
 瀬川がどれだけ手を伸ばそうが、スマホ片手に空いた腕一本で簡単に躱され、跳ね返される。
「ウチは『ホークアイ』ってバーで、今ここにいんのは俺と、このおっぱい姉ちゃんの二人だけだ。いいかげんこの女の愚痴聞かされんのも飽きてきてな、ちょっとイライラしてんのよ。三十分以内にあんたが迎えに来なければ、この姉ちゃんどうなっても知らねえからな」
『ちょっと……!』
 犬山の声が聞こえる通話を、無情にも一方的に切ると、ママがスマホを差し出しながら、ペロッと舌を出して返してくれた。
 瀬川は今度こそ手を伸ばして奪い取る。
「彼すんごい焦ってたわよ」
「な、なんで……?」
 混乱しきった頭で瀬川は呆然とスマホを見つめる。
 間もなく新しい通知が表示される。

 『犬山倫太郎:変な電話ありました。大丈夫ですか?』

 犬山に返事をするべきなのだろうが、なんと返してよいのかもわからない。そもそも、この状況が瀬川にも飲み込めない。
「助け舟出してやったんでしょ、感謝しなさいよ」
「たすけ……ぶね? いや、まったく意味わかんない」
 お陰ですっかり酔いは醒めていた。急いで頭をフル回転させる。
「このぐらいやって、それでも深夜に他の男と二人きりのあんたを放っておくような相手なら、残念だけど諦めなさい。でも、期待していいわよ。彼、凄く慌ててた。きっと、すっ飛んであんたを迎えに来るから」
「だから、なんで犬山君と……?」
「イヌヤマ? ええと……あんたが片思いしてる男の名前って、確か……」
「……もうっ、どんな顔して会っていいかわかんない!」
 その後、瀬川はさらにビールを五杯注文した。
 汗だくで走って来た犬山が、酔い潰れた瀬川を背負って店を出たのは、電話を切ってからきっちり三十分後のことだった。



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