Side:犬山

 一方的に電話が切られ、混乱していた犬山は、暫く呆然と宙を眺めていた。
 そして、誰かのイタズラかもしれないと思い、ラインのトークを開けて、変な電話があったと瀬川に打ち、暫く待ってみるも、返事が来る様子がない。
 考えてみれば、仮にイタズラだったとしても、電話は瀬川のIDから発信されていたので、本人のIDにトークで質問しても、イタズラ主が返してくる可能性が高く、それで本人か偽物かの真相が確認出来る筈はない。
 そして暫く待っても、返事がないということは、いよいよ瀬川のスマホを借りて、何者かが寄越した電話であり、当の本人が犬山のトークに応じられる状態にないということだ。
「やべえかも……」
 男は『ホークアイ』と言っていた。
 店の名前を地図検索すると、すぐにわかったのはいいが、場所が問題だった。
「徒歩三十分? ちょっ、なんで瀬川さん、深夜にそんなとこいんの!」
 男は三十分以内に来いと言っていたが、電話を切ってから、既に七分が経過していた。
 犬山は慌ててロビーへ降りると、フロントでタクシーを呼ぶつもりだったが、運悪く海外からの団体客が到着したばかりで、従業員を捕まえることさえ困難だった。
「くそっ、しゃーねえ」
 もう一度地図アプリを確認すると、犬山は深夜の嵐山を猛ダッシュで駆け抜けて行った。

 丸太町通りを歩いていた。このまま東へ進めば撮影所の近くに出るだろう。
「ねえ、さっき幽霊マンションあった」
 背後から気怠そうな声が、教えてくる。耳の辺りから漂ってくる息が非常にビール臭い。
 そういえばこの通りには、昼間に瀬川と二人で訪れた、有名なマンションがあるが、今はすっかり綺麗にリフォームされていて、当時の面影はない。
「そっすね、ここ丸太町通っすから。撮影所の方に向かう道すがらにホテルがあるので、もう少し寝てていいっすよ」
「そうじゃなくて……今あったんだよ、幽霊マンション」
「はいはい。そっすね」
「違う、だから、あたし本当に見たんだよー」
「わかりました、わかりましたから……その、大人しく……」
 無防備に背中へ押し付けられる弾力に犬山は焦る。
 負ぶってみて気が付いたことがあるが、瀬川は身長の割に体重が軽い。後ろ姿も華奢で、そのわりに胸だけが大きい。タレント時代にグラビアモデルの経験があるというのも頷ける、見事なプロポーションだ。
「少なく見積もっても、GかH……あるいはそれ以上?」というのが、初対面の感想で、今の瀬川ではないが、どれだけ酒に呑まれても、本人には打ち明けられない第一印象だと犬山は思っている。
 当時から、すごく柔らかそうだと思っていた乳房が、今、無遠慮に犬山の背中を、もっと言うなら彼の理性を扇動しており、二十代前半の健康的な犬山は内心大変困ったことになっていた。
 そして、わずかにしがみついている理性でこう考えてしまう。

 こんな凄いおっぱいにどれだけ迫られても、きっとあの人の心は微塵も動かないんだろうな。

 地図アプリのお陰で時間ギリギリに到着したバーのドアを開け、犬山はギョッとした。
 カウンターには、瀬川のIDを使って犬山と通話した本人に間違いないであろう男が立っており、胸の前で腕を組んでまっすぐに犬山を見ていた。
 形の良いスキンヘッドと太い首、その下の肩に腕、胸、胴、カウンターに隠れている下半身も恐らく含め、なにもかもが犬山と比較にならないほど鍛え上げられている。プロテインの広告モデルに使ったら、さぞかし良い絵になるだろうなあ……映像制作会社で多少なりともカメラを構えている犬山は、そんな印象を男に抱いた。顔の彫りも深く見事な造形で、恐らく純粋な日本人ではないのだろう。
 非常に絵になるマッチョマンと、犬山は暫し目を合わせる。
「すごーい、時間ぴったりだわね〜」
 間の抜けたセリフは、確かにスマホで聞いたバリトンボイスと同じだった。
「はい……?」
 犬山はマッチョマンと視線を合わせたまま、気持ちだけで二度見した。
「ちょっとぉ、突っ立ってないで、さっさとこの女連れて帰りなさいよぉ。店閉められなくて困ってんのよ」
「あ……すいません……」
 犬山は慌ててカウンターへ近付くと、マッチョマンの目の前で無邪気に寝顔を晒している瀬川の肩を揺すった。
 手にした小さな肩も、白いポロシャツの襟から伸びたうなじも、何もかもがあまりに細く、そして無防備だった。
「……えっと、この人ずっとあなたと二人きりで、ここに……?」
「気になるのか?」
 ニヤリと笑った男の笑顔が、嫌になるほどサマになっており、それは紛れもなく、ライン電話で交わした男らしい声と口ぶりそのものだった。
 どちらが本性なのだろうかと、犬山は疑う。
「いや、ただ……この人、ちょっと昼間散々な目に遭ってて、ヤケ酒だったんじゃないかと思ったから」
「自暴自棄になって酔っぱらったところを、俺に食われたんじゃないかって?」
「いや、そこまでは……」
 そのぐらい簡単にしてしまいそうな、肉食獣の目だと犬山は感じた。
「お人好しだな。あんた、水森って男とは違うんだろう?」
 思いがけない上司の名前を出されて、犬山は動揺した。そして、自分がお人好しだと言われた文脈から、酔った瀬川が水森の名前と秘めた彼女の思いを、見知らぬこの男へ打ち明けたのであろうことがわかってしまい、犬山は内心、口唇を噛んだ。
「関係ないっしょ、そんなの」
「そりゃそうだ。俺とその姉ちゃんも、ただのママと客って以外なんの関係もねえし、手なんか出しちゃいねえから、坊やは安心しな」
「坊やじゃないっすよ、犬山っす」
「アタシはホセ・カルロス・沈丁花。ペペって呼んでいいわよ、犬山君」
 またおネェ言葉に戻って男が自己紹介した。
「遠慮しとくっす」
 ふざけた名前だと思ったが、百パーセント本名じゃないとも言い切れないので、ツッコミも自制しておいた。
「それから、アタシとおっぱい女は何も関係ないけど、アンタとはそうでもないかもしれないわ」
「どういう意味っすか」
「俺はこう見えてバリネコでね。でもって、馬鹿っぽい坊やを食うのが大好きなんだ」
 瀬川の肩を支える犬山の手首が、力強い握力で掴まれた。
「えっ……?」
「アンタがストライクゾーンど真ん中だって言ってんの……」
 顔を上げた瞬間、整いすぎた男の顔が近付いてきて、慌てて犬山は瀬川を抱えると、逃げるように『ホークアイ』を後にした。



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