3.対話。
地下鉄駅へ向けてアントニオ・ロペス通りを歩いていると、暫くして後ろからハビが追いかけてきた。
「ラストロ製品の不買を呼びかけるなんて、いいと思わない?」
落書きだらけのブロック塀に書かれた、スプレー文字による「グエル不買」の書き殴りを見つけて、ハビが唐突に提案した。グエルにおける昨今の独立騒ぎを受けて、とくにラストロではよく見かけるようになった定番フレーズだ。個人的にグエルの独立は愚かな発想という立ち位置だが、だからといって不買運動に参加したととしても、エスパニアにおける殆どの企業がグエルに本社を置いている現状で、自分が不便を被るだけではないかと思う。とはいえ、政治問題にあくまで外国人の僕がとやかく言う立場でもないので、表立って意見の表明は差し控えている。ともあれ。
「まさかと思うけど、さっきの街宣活動に関わっての提案だったりするのかな? 今回のテーマはあくまでゴンサルボに対する糾弾活動であって、ラストロは関係ないよね? まさかと思うけど、FDCの本拠地がラストロだから、首都ごと攻撃しようって極端な発想?」
焦点がぼやけたアピールは人々に理解されないし、ましてや賛同が得られる筈もない。そもそも、ラストロ市ごと非難する理由が不明だし、こんな大雑把な思い付きに巻き込まれた企業はいい迷惑だ。
というか、スプレー落書きごときに触発されて、善良な企業の営業妨害を公共の場で不特定多数に呼びかけようとしないでほしい。訴えられてもしらないぞ。
「篤、本当に来ないつもり? せっかくトニも来るのに。・・・歩くの早いよね」
僕の返事でラストロ不買の呼びかけを無事に阻止出来たのかどうかは知らないが、今の会話に返事はなく、突然話題が変わった。思い付きと突飛な発言はいつものことなので、いちいち気にしない。
身長170センチもないハビは、ただでさえ早足の僕に合わせようとすると、どうしても無理をするようになる。とはいえ、ついてこいと言った覚えはないし、僕も決まったスケジュールの中で移動をしているから、意地悪ではなくハビに配慮をする余裕がない・・・いや、意地悪をしたくないわけでもないが。
ホテルを出て以降、ハビが何度目かの小走りを交えた。そもそも。
「アントニオと僕の間に、過去何があったかを知っていれば、彼が参加する場へ僕が普通に合流するという発想こそがむしろ不思議なんだけど」
「それってラケルって子を巡っての修羅場の話? 中学時代のことでしょう? 大体、篤はラケルを寝取ったウィナーで、赤っ恥を掻かされたのはトニじゃないか。ちょっとみんなの前で殴られたぐらいで、篤も小さい男だなあ、身体はそんなに大きいのに。ねえ、今身長何センチあんの? それ以上伸びないでほしいんだけど」
「バカバカしい痴話げんかに巻き込まれて咬ませ犬扱いされた、僕のプライドは完全無視されるのかい? まあ、確かに五年も前の出来事に僕だって今更どうこう言うつもりはないから、もうこの話はやめておこう。ちなみに春計ったときは去年と同じで185センチだったから、これ以上はそんなに伸びないと思うよ。達也さんが二十二歳ぐらいまで伸びたらしいから、伸びたとしてもせいぜいあと、1〜2センチってところじゃない?」
「達也みたいにあそこもグランデだなんて言わないでくれよ、この成長期め。うっかり乗っかりたくなっちゃうじゃないか」
「今の発言は聞かなかったことにするから、ハビも絶対うっかりでも達也さんの前で言わないでよね。家庭事情的にあの人を敵に回すと、僕は一条で生きにくくなってしまうから・・・」
「・・・マジ深刻そうな話だね、注意するよ。それから、これは三十路間近なおじさんからの助言だけどさ、篤はその何かにつけて引きずる性分を治した方がいいと僕は思うね」
「何の話して・・・」
アントニオの件でまだからかわれているのかと、軽い気持ちで言い返そうとした僕は、青い双眸と視線が合って口を噤んだ。ハビの目があまりに優しすぎたから。
「ええと・・・八十三分かな? 三か月ぶりに篤と会ってから、こんなに時間が経ってるのに、僕はまだ君の恋人の名前も聞いてないんだけど」
「それが・・・なんだって言うんだよ」
恋人の名前は、とっくにハビだって知っているはずだ。彼を、まだ恋人と呼んでいいなら。
胸がズキンと疼く。
「妖精ちゃんが、ライバルの秀才君と一緒に、君に内緒でクラス委員を務めたときも、君が嫉妬から妖精ちゃんを、乱暴に扱ってしまって後悔したときも、そして妖精ちゃんの辛い生い立ちを知った君が、一生をかけて愛しい彼を守り、添い遂げたいと強く誓ったときも・・・いつだって君は自由に、その愛を包み隠さず、達也や僕に語って聞かせてくれたじゃない。心に収めきれない熱い情熱に触れて、達也よりもおじさんの僕なんかは、いやあ若いっていいなあなんて、ちょっとばかし呆れたわけだけど・・・」
「だったら無理して、聞いてくれなくたってよかったんですけど・・・」
よもや通勤客が行きかうラストロ市内の路上で、顔から火が出るほどの恥辱を思い知らされるとは思わなかった。
我知れず握り締め、腿にピタリとつけていた拳へ、華奢な白い手がそっと当てられて、やさしく包まれる。十一月の乾いた晩秋の空気の中で、ひんやりとして冷たかったその手には、意外なほどに温かい思いを込められているように感じて、従兄の優しい恋人を僕はたまらず振り返った。
「でも、抑えられなかったんでしょう、君のその胸が、優秀な頭が、彼のことで、彼への愛でいっぱいで」
妖精ちゃん・・・ハビが勝手に名付け、一人で読んでいるニックネームは、僕が初めて彼に会い、気を失った僕が彼に介抱され、愚かにも妖精と見間違えたエピソードを話したことが由来だ。以来、彼に惹かれ、近づき、やっとのことで僕は思いを遂げた。だがこの春、彼は僕と中学以来の同級生である峰の指名で副委員長に選任された。峰が彼を、僕と同じ気持ちで思っていることは、その言動や僕に対する挑発行為からも明白で、そういったものに彼が惑わされることが、僕には耐えがたく、醜い嫉妬で膨れ上がった僕は、体育祭の日の夕方、力づくで彼を奪った・・・謝るべきなのに、子供っぽい虚栄心から彼に冷たい態度をとってしまった。人一倍辛い生い立ちを経て、人一倍明るく生きてようとしている彼を、誰よりも愛し、守りたいはずなのに・・・その役目を僕は誰にも渡したくはないのに。醜い欲望で残酷に傷つけられた彼は、今でも恐怖と戦っている・・・いつでも壊れそうなその心が、安心を求めていることはわかりきっているのに、僕は頑なでエゴイスティックなプライドから、何度も彼を傷つけてしまう。僕を信用して彼の生い立ちを包み隠さず教えてくれた原田氏の信頼を、僕はあっさりと裏切ったのだ・・・。
「・・・愛してるさ・・・だからこそ、怖いんだ」
時間がない。春がくれば、その先何年も僕は日本に帰れない。だから、早く答えがほしい・・・僕と一緒に付いてきてくれると、彼に言ってほしい。違う・・・そんなことが問題なのではない。彼の心が、本当に僕だけに向いているのか、彼が僕だけを見てくれているのかが、僕は心配なんだ。だから苛立って、彼を何度も傷つけてしまう。そんな自分に辟易する。
「本気で愛してるからこそ、簡単じゃない。誰だってそうだよ、きっと妖精ちゃんも。篤が安心させてあげないと、どうするんだよ」
「わかってる、そんなこと・・・でも、僕は・・・本当に、彼が僕を、僕だけを求めてくれているのか、自信がないんだ」
峰はきっと、僕よりずっと大人だ。ぶっきらぼうで、辛辣なことしか口にしないし、人付き合いも下手で不器用な男だが、峰はきっと何があっても愛する人を傷つけたりはしないだろう。本当の優しさを持ってる奴だということは、長年見ている僕にもわかる。峰なら彼を、きっと幸せにするだろう。何があっても、決して裏切ることなく。僕より、・・・峰はずっと彼にふさわしい。
07
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