「そういやさ、昨日、ひさびさに臨海公園駅前に行ったんだよ。そしたら『彩(あや)』が店閉めてたんだよね」
レジ前で伝票を差し出しながら、カレーマンが言った。
「ああ、俺も暫く行ってねえな、そういや……。方向、逆になっちまったもんな。ええと……960円かな」
壁に貼りつけてある、俺用価格一覧表のケーキ欄とドリンク欄をそれぞれチェックしながら、レジを打つ。
「850円でしょ……指差し確認でどうして間違えるかな。もう2週間なんだから、そろそろ値段覚えようね、アッキー」
「ああ、そうか、……ケーキセットだったな。悪りぃ、クレープとカプチーノ、別々に計算してたわ。2週間ったって、まだ3日目なんだから勘弁しろ。仕方ねえな……850円にしといてやる。つうか、アッキー言うな、カレーマン」
野口英世を受け取り、150円を返す。
「レシートは……、まあ、いいや。ところで、さっきから言ってるカレーマンって、やっぱり俺の事だよね」
カレーマンが微妙な表情で聞いてきた。レジ訂正が必要なので、レシートなんて出す余裕は、もちろんない。
「今このレジ周りに、俺とお前以外の誰がいるんだよ、カレーマン」
目の前にいるカレーマンこと、直江勇人(なおえ はやと)は、俺や峰、江藤と同じ、城陽学院高等学校の今年度卒業生であり、臨海公園駅前商店街にある、カレー専門店『FLOWERS』のベテランアルバイト店員だ。そして、4月から俺と同じように泰陽文化大学文学部美学美術史学科へ進学し、3年連続でクラスメイトにまでなってしまったという、腐れ縁ぶりである。もっとも、大学のクラスメイトなど、高校までの様に、始終関わりがあるというものではなく、現状、顔と名前が一致するのは、俺も直江も、まだお互いだけだという、妙な親近感で、背中がザワザワしている今日この頃である。
さて、そんな直江は、進学を機会に、バイト先の所属を、臨海公園駅前店から、学園口店へと異動になったのだ。
『FLOWERS』学園口店は大学正門の目の前にあり、当然のことながらその客層の90%以上は泰文大生(たいぶんだいせい)である。したがって学部生を中心に直江の存在はあっという間に知れ渡り、4月の間に「カレー屋のアルバイト」→「カレー屋」→「カレーマン」と渾名が変形していったスピード感は、光のごとき鮮やかさだったわけだ。
先週末、直江にひっぱって行かれた、居合道サークルの新歓コンパで、帰るころにはすっかり呼び名が定着していたから、本人も承知したものと俺は納得していた。俺はというと、いつのまにかアッキーと呼ばれていたが、承知するも何も、温いサークルとはいえ刃物を取り扱う武道家の集合体で、新入生に発言権や、まして反論の資格などあるわけはない。
「おい、新入生、本身(ほんみ)見せてやるからこっちこい!」などと、ビール片手に抜き身の刀身をギラつかせながら、手招きでもされたら、なおさらだ。
ちなみに、本身とは真剣のことだ。武士が持つあれであり、正真正銘本物の日本刀ということである。切ったら血が出るのだ。
というわけで、俺も直江もずっと、アッキーだのカレーマンだのと、勝手に呼ばれ続けて、一気飲みさせられ、直江のゲロ処理までさせられて、あげくに家に帰ったら伯母の冴子(さえこ)さんに明け方まで説教されて、翌日は二日酔いでバイトを欠勤し、オーナーには怒られて……人生初の大学コンパは散々な記憶しか俺にもたらさなかった。
ところで、直江に付き合わされて、新歓コンパへ行った俺なわけだが、今現在、居合道サークルの名簿入りしているのかどうかは不明である。サークル室へ行ったこともなければ、稽古のお誘いも来ないので、放置している状態だ。そもそも居合が何なのかも、知らないし興味もない。酔っぱらったFラン大学生が、公共の場で刃物を振り回すような危険なサークルとは、できればこれ以上関わりたくもない。
「……やっぱり、カレーマンなんだ。そろそろハヤトって呼んでくれるかなって期待してたのに、これじゃあ俺達の関係って、前に進むどころか後退してるよね。……なんかさ、旦那さんの容体が良くなくて、病院に付きっきりなんだって。小さいお子さんもいるのに、大変だよね」
「前進とか後退とか、何の関係だよカレーマン、気持ち悪りーぞ。旦那さんって、『彩』の店長の、ご主人のことか?」
臨海公園駅前商店街にあるビルの1階に、ラーメン店『彩』がオープンしたのは、昨年11月上旬のこと。店長の志賀綾(しが あや)さんは、元々ラーメンチェーン『天王(てんおう)』の厨房長だった女性で、幼稚園に通う一人娘の咲(さき)ちゃんを育てながら、『彩』の切り盛りと、入院しているご主人の看病を一身に受け持つ多忙極まりない日々だった。
「うん。昨日、シンさんとトモさんがウチの店に来てさ、もうずっと休業が続いてるんだって言ってた。先月半ばに旦那さんの容体が急変してから、殆ど開けてないみたいだよ」
シンさんとトモさんは、臨海公園駅前商店街にあるクラブ『Marine Hall』の二人である。シンさんが大谷晋三(おおたに しんぞう)さんで、トモさんが、石田有朋 (いしだ ありとも)さんという名前であり、クラブの店員と店長という肩書は世を忍ぶ仮の姿、本業は漫才師かと思うほど、俺達の心を引きつける、見事なボケとツッコミぶりで、息の合った会話のコンビネーションが二人の持ち味なのだが、私生活では恋愛関係だというから、わからないものである。
「店って大学前のか? あの人たち、そんなところまで遠征してんのか、本当に困ってんだな。っていうか、だったらウチの方が近いだろうに」
『Marine Hall』の二人が遅めのランチをとる時間帯、近所のリーズナブルな飲食店は大抵、腹をすかせた下校中の高校生で満席のため、『彩』の存在はありがたいと、オープン当時に言っていたことを思い出す。だが、『彩』から直江の現在のバイト先になる『FLOWERS』学園口店までは、電車で5駅ほど移動が必要だ。
「ワンコインでお腹いっぱいが基本みたいだから、ここのランチはだいぶ予算オーバーなんじゃない?」
「確かに毎日じゃあなあ……」
『Cappuccino』の日替わりランチは、パスタにサラダとスープ、それにドリンクが付いて1100円なので、それほどお高くはないのだが、質より量を求める困窮した成人男性達には、手が届き辛いかもしれない。メニューもけっしてボリュームがあるとは言えないだろう。実際、うちの客層は、殆どが女性と、見るからに内勤の、スーツを着た日焼けしていないリーマンが、買い物帰りの主婦に混じって、肩身も狭そうに座っているといった感じである。俺も飯を食べるなら、『Cappuccino』よりは『天王』のラーメン餃子セットを選ぶ。
『Cappuccino』の客層はさておいて。
「俺、あの人おっかなかったんだよねえ……」
釣銭の150円を未だ握りしめたまま、不意に直江が顔を顰めた。
「店長さんか? 優しそうな人だったじゃねえか」
レジの抽斗をパタンと閉じつつ、すっとぼける。
「綾さんじゃなくて、ホラあのマサって職人さん……なんか、気味悪くって。アッキーのこと目の前で真顔のままじーっと見つめてたじゃん。そりゃ、アッキー綺麗だけど、普通お客さんにあんなことしないでしょ。しかも、眼力っていうのかな……なんか、やけに強烈だったんだよなあ。なんでだろ……」
マサとは、『彩』の従業員、広中正純(ひろなか まさずみ)のことである。俺とて忘れる筈はない。だからこそ、敢えて考えないようにしていたのに、直江のせいで不快な記憶を呼び戻されてしまった。
「だから、アッキー言うなっつうの、カレーマン」
実に気分が悪い。
「だったら、俺の事もそろそろハヤトって呼んでよ。ハヤト君でもいいけど……って、うわあ」
直江が意外と可愛らしい悲鳴をあげた。可愛らしくてムカつく。
「なんで俺が、そんな気色悪い呼び方をせなならんのだ。釣銭しまって、とっとと帰れ。仕事の邪魔すんな、カレーマン」
「オーナーさーん、店員さんがお客様に暴力を……痛いって、いたたたた……」
「またのお越しを」
直江を戸外に蹴りだすと、俺は仕事へ戻った。店へ入った途端、オーナーに怒鳴られたことは言うまでもない。
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