俺、原田秋彦(はらだ あきひこ)は、この4月に泰陽(たいよう)文化大学文学部美学美術史学科へ進学するとともに、ここ、『Cappuccino』でアルバイトを始めていた。勤務があるのは土日を含め、平均して週に3、4日程度。
授業がない日は今日のように早番で入ることもあるが、大抵平日は学校を終えたあとの夕方から閉店まで。つまり、昨年からここに勤務している、先輩アルバイトの香坂慧生(こうさか えいせい)と入れ替えシフトで入っているのである。
慧生は4月から泰陽製菓専門学校の夜間部に通い始めている。全日制に比べ割安の夜間部は、慧生のように、すでに現場で仕事をしている菓子職人志望の学生が殆どで、学べる時間こそ短いが、その分授業は真剣そのもので浮ついた雰囲気がなく、内容が濃いそうである。
費用は全額、恋人で女子大付属病院のお医者様である進藤伊織(しんどう いおり)氏が出資しており、当初は全日制で願書を提出していた慧生が、独断でコースを変更した。理由は、間違いなく、健気な慧生が授業料を気にしてのことだろう。もちろんこの変更については、恋人同士でひと悶着あった筈だが、元々苛められっ子で協調性がない慧生にしてみれば、学生同士の不要な付き合いやお喋りが少ないであろう分、結果的に夜間部の方が性に合っているかもしれない。
変化と言えば、国立T大学経済学部にセンター満点合格していた、脅威のスーパー城陽卒業生の、峰祥一(みね しょういち)は、結局、本人の舐めた言いぶんによるところの第一志望だという、泰陽文化大学仏教学部仏教学科へ進学し、赤門に後ろ脚で砂を引っ掛けた形となった。
これが母校の城陽(じょうよう)学院高等学校において、当然のことながら許されざるべき大事件だったことは、考えるまでもない。何しろ創立以来、間違いなく初めての国立大学合格者第一号であり、それも一流中の一流どころだ。そのまま大人しく当たり前に進学してくれていれば、入学説明会で配布するパンフレットに「T大学」の金文字がプリントできるのである。……金色じゃないかもしれないが。それを、なにを血迷ったものか、よりにもよって、ご近所の典型的なFラン私大であり、城陽と変わらぬ蔑みを込めて、人々がその名を口にする泰陽文化大学へ進学するというのだ。
自宅へ保護者宛てに連絡が入り、校長自ら本人及び家族の説得へあたること約1週間。10日目には電話が五月蝿いという母親の一声でモジュラージャックが引き抜かれ、迷惑電話として泰陽警察署へ通報に向かおうとする彼女を、息子と夫の二人が必死に引き留めたそうである。
ちなみにご両親は、最初から長男の進路について、泰文(たいぶん)で問題ないと了解しており、何度かの三者面談で、担任の井伊須磨子(いい すまこ)教諭ともども、そのつもりで話が進んでいた。ところが、途中で進路指導に首を突っ込んで来た教頭が、無理矢理、峰にT大を受験させたというのが実情だったようだ。
要するに、本人も家族も、最初からT大へ行くつもりもなければ、行かせるつもりもなかったというのだから呆れる。何しろ、峰がゆくゆくは就職先として志しているらしい西峰寺(さいほうじ)の住職は、代々泰陽文化大学仏教学部の出身であり、峰家の人々なのだから、それも当然だろう。
計算が狂ったのは、城陽学院側だ。
本人及び保護者の説得で失敗した上に、すっかりご機嫌斜めの峰の母親から、『今後当家と一切関わらないこと』を約束させる内容証明郵便が校長宛てに届いてしまった。これを受けて職員達の間では、既に印刷があがっていた次年度の入学説明会用パンフレットが問題となり、放課後に緊急会議が招集された。パンフレットの『卒業生の声』欄に、今年度卒業生を代表して、峰が執筆しているページがあったのだ。もちろん何日も前の、本人登校時に書かれたものではあったのだが、配布されるのは半年以上先である。これを「今後の関わり」と判断するべきかどうかは、実際のところ微妙であるが、現状まだ卒業していない息子の在校先へ、内容証明郵便を送りつけてくるほどの怒りの持ち主に、余分な燃料投下をすることは、絶対に無難ではない。
会議の結果としてページの差し替えが決定され、その日のうちに電話を受けた江藤里子(えとう さとこ)が、印刷会社とのスケジュールの都合上、当日のうちに執筆、翌朝8時までに入稿させられる羽目になったという。……それをなんとかしてしまうあたりが、根っからのクラス委員長気質である、江藤里子たるゆえんだろうと、俺は思い、全米が泣いたのだった。
進学先に国内最高学府の名を手に入れ損ねた城陽学院高等学校だったが、それでもこの春は、チューファ大学という、これもまた海外の名門大学へ進学した生徒がいたのだから、じゅうぶん満開に花咲き綻ぶ春だった筈だ。ただ、卒業生の実力で勝ち得たにすぎない、そういった一時的な偏差値上昇が、今後定着して学校のネームバリューに繋がるかどうかは、後輩たちの努力次第であり、俺達の知る限りではないだろう。
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