ニコルズ殺害から数えて、6日目の朝。
再びやって来たバックス・ロウは、あの日から何も変わりはなく、もっと言えば事件の翌朝ですら、オールド・モンタギュー救貧院の人々による、懸命の清掃活動により、ほんの数時間前にあれほど酷い惨殺が行なわれた現場とは思えなかった。
9月2日の早朝に起きた、ウェントワース・ストリートの娼婦殺害事件が、仮に別の犯人によるものだとして、ニコルズ殺害から明日で何の進展も見られないまま、1週間が経過する。
いや、4月のエマ・スミスから数えれば3ヶ月が経過しているのに、その間にホワイトチャペルでは、すでに4件の殺人事件が起きており、警察は事件解明の手がかりすらも得られていない。
駅前で売られていたスター紙の見出しは、俺の予想を遙かに上回った酷い物ではなかったが、概ね想像通りで、いつもにように言葉を尽くして警察を馬鹿にしてくれていた。
もっとも、昨日ベイツがホワイトチャペル署で目にした物、聞いたことを思えば当然だ。
バトラーズ・コートへの狭い通路を渡り、小さな広場へ出る。
そして開きっぱなしの門から、相変わらず泥濘だらけの裏庭を介して、『トッドの理髪店』へ入った。
1階の店舗跡は前回の訪問時とは少し様子が違っていた。
「ウォーレンは出て行け・・・? なんだこりゃ」
部屋には積み上げられた薪木と、何枚かの紙片、箱に入った文房具が、壁際に纏めて置かれており、床に残された足跡を見る限り、前回ここへやって来たときと比べものにならないほど、大勢の人々が、最近出入りした形跡が残っていた。
俺は手にした紙を床へ下ろし、別の物を拾い上げる。
それは、シーツか何かの大きな布を繋いで細長くしてあり、赤と黒のインクで書かれた文章は、警察を糾弾し、住民の怒りを煽るスローガン・・・横断幕だ。
どう見ても、これはデモ活動の準備である。
「う・・・・んん・・・」
不意に女の呻き声が聞こえて、顔を上げた。
部屋の外からだ。
開け放した出口まで一旦戻り、階段の裏側へ回って、ぎょっとする。
「おい・・・、ジニーか? どうしたんだ、一体・・・」
見覚えのある亜麻色の長い髪に気が付いて、傍へ駆け寄り、地面に蹲っていた女を抱き起こす。
汚れた白い肌は、あちこちが腫れて、痣と瘡蓋になっており、躰を動かすたび、彼女は苦しげに顔を歪ませた。
「何でもないよ・・・あぁっ、くっ・・・」
「何でもない奴が、そんな声を出すものか・・・起こすぞ。苦しかったら、俺にしがみつけ。服に噛みついてもいい」
彼女を抱えて俺はバトラーズ・コートを出た。
そのままホワイトチャペル・ロードを南へ渡り、ロンドン病院へ連れて行く。
受付で急患だと伝えると、幸いすぐに診て貰えた。
ジニーは足首の骨を折っていた。
3日前、俺が『トッドの理髪店』を出た直後に、彼女は2階で他の住人達から暴行を受け、逃げようとしたところで、階段から突き落とされたらしい。
歩くこともできず、俺が彼女を発見したあの階段の裏側まで、どうにか這って行き、そこで痛みをじっと堪えていたようだ。
気が付けば俺が渡した金も、いつの間にかなくなっていたという。
俺に協力して、いくばくかの金を得たばかりに、警察を敵視している他の住人達から反感と嫉妬を買ったということである。
自分が彼女にした、軽はずみな行動が生んだ結果を、俺は噛み締めた。
「何て顔してるのさ」
薬が効いてきたせいか、幾分表情が落ち着いたジニーは、ベッドに横たわりながら細い声でそう言った。
病院から貸与された、清潔な寝間着に着替え、汚れを拭った顔は、本来の白さと幼さが顕わになり、そのぶん鬱血や擦り傷が痛々しかった。
衣類に隠された肌の上には、さらに何倍もの暴行の痕がある筈だ。
足に至っては、包帯の下に固定具を添えられ、そこだけシーツが異様に膨らんでいる。
「こんなときまで、強がるなよ。・・・悪かったな、俺が証言させたばかりに」
「刑事さんのせいじゃないよ。あたしが鈍くさかっただけ。だいたいあたしは、何も間違ったことをしちゃいない。・・・だって、犯罪捜査に協力するのは、市民の義務だろ」
ジニーの言葉が心に沁みた。
「みんなが自然にそう言ってくれるようになれば、一番なんだけどな。・・・そのためには、警察が本来の信頼を取り戻さないといけない」
「それは刑事さん達の仕事で、あたしには関係のないことだ」
「ごもっともだな」
行き詰まる殺人事件の捜査。
風通しが悪い、警察の内部事情。
そんな実態を見通されているかのように、風当たりが悪くなる一方の、市民感情・・・。
だからといって、ここで彼女に愚痴を言っても仕方がない。
「助けてくれて、ありがとうね」
「いや・・・、俺はただ・・・」
自分のせいだからと、また言いそうになり、話が堂々巡りになる気がして言葉を止める。
察してくれたからか、ジニーの方から話を変えてきた。
「さっきから手にしてるその紙だけど・・・、あたしに聞きたいことがあって、あそこへ来たんじゃないの?」
筒状に丸めたスケッチブックの1ページを差して、彼女は訊いた。
「ああ、そうだった・・・」
俺は署から持って来ていた紙片を、そのまま彼女に手渡した。
昨日ベイツから預かった似顔絵は、途中で粗雑に扱われたこともあり、表面に随分と余計な皺が寄っていた。
ジニーは紙を受け取り、折り癖に少々手こずりながら、それをシーツの上に広げる。
「これって、あれじゃないの・・・ジキルとハイド?」
「やっぱり君もそう思うか。・・・それ以外に、何か見覚えとか、気が付くことはないかな」
ジニーは暫く絵を眺めていたが、不意に顔を上げて絵を返してきた。
「ごめんね・・・言いたいことが、今ひとつよくわからないんだけどさ、とくに気が付いたことなんてないよ。あのポスターに似てるってだけ」
「いや謝らなくていい、それならべつに構わないんだ・・・。悪かったな、しんどいのに変なこと訊いて」
「気にしないでって言ってんだろう。・・・他には何か、聞いておきたいこととかないのかい?」
ジニーの方から積極的に捜査協力を申し出てくれたので、彼女の負担にならないように、その顔色を見ながら、俺はもう一度、ニコルズらしき女と一緒に男がいたときの状況を、再確認することにした。
そしてアザミの証言を思い出しつつ、慎重に話を進めていたところ。
「キス・・・?」
不意にジニーが、そう聞き返してきた。
「ああ・・・だから、その女と男が、『トッドの理髪店』の前で、・・・・正確にはキスじゃなかったのかも知れないが、二人の顔が接近しているように見えて、抵抗する女の声が聞こえなくなったって・・・」
アザミはそう言っていた。
するとジニーが、不意に表情を曇らせる。
「だったら・・・・あたしが見ていた二人とは、別のカップルのことだと思うよ。だって、あの女は立ち去る男に向かって、ずっと・・・・・」
その後ジニーは、けして若い女が口にするべきではないような、男を性的に貶める俗語を幾つか並べた。
「ええと、その・・・・、ジニー・・・」
「・・・・あ、あたしが言ったんじゃないのよ!? だから、その中年女が、しつこくそういう類いの言葉で男を罵りながら、後ろから歩いて行ったんだよ」
ジニーが焦りながら弁解する。
顔を赤くして慌てる様子が、なんとも可愛らしく、もう少しからかってやりたい衝動に駆られたが、彼女の負担を考えて、無駄話は避けた。
俺はそのまま尋問を進める。
「歩いて行ったって、どこへ?」
「ブレイディ・ストリートの方へさ・・・・別のカップルじゃないのかと今思ったけど、よく考えたら、その子の記憶違いかもね。だって、あの夜はずっと眠れなくてさ・・・あたし、朝までぼんやり窓から通りを眺めていたから。そのカップルが立ち去って暫くして・・・そしたら、次第に通りが騒がしくなったんだよ。オールド・モンタギュー・ストリートの方から救貧院の人たちがゾロゾロやって来て、ブレイディ・ストリートの方へ歩いて行ってさ。すぐに警察も集まりはじめて、ああ、なんか向こうの方で事件があったんだなって・・・」
「そうか。・・・ジニーありがとう、もう休んで良いよ」
そこで俺は話を打ち切ると、立ち上がった。
弱々しい声で、大丈夫だとジニーは言ってくれたが、顔色も悪く、とてもこれ以上彼女を付き合わせるわけにはいかなかった。
手を貸してやり、ジニーをベッドへ寝かせると、俺は退室してロンドン病院を後にする。



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