男にアバラインの椅子を勧め、俺も自分の席に腰をかける。
他に空いている椅子がないため、ベイツがそわそわと辺りを見回していたが、敢えて無視した。
付いて来いとは言っていない。
来訪者の名前はロバート・リーズ。
どこかで見た顔だと思えば、彼は結構有名な霊媒師だった。
1861年、ほんの子供だった霊能力者の少年がヴァッキンガムに滞在して、亡くなったアルバート公から女王へ、黄泉からのメッセージを伝えていた・・・そのときの子供が、目の前にいる、青白い顔をした青年である。
「ラスクに言いつけてやるからな、覚えてろっ!」
突然、大きな音を立てて、労働者風の男が椅子から立ち上がると、ドスドスとした足取りで部屋から出て行った。
その後ろを何度も謝りながら、ニールとディレクが追いかけていく。
怒っていたのは、先ほど玄関で擦れ違った男だった。
刑事課へ戻ってみると、中は労働者風の男を尋問している刑事や巡査でいっぱいだった。
連れて来られたのは、一様に30〜40代の男でユダヤ人風。
どうやら警視監の命令で、彼らは手当たり次第に連行されたものの、取調室が足りなくなって、この刑事課で調書をとられていたらしい。
ところが、勾留しておくだけの理由がないものだから、続々とお引き取り頂いているのが、今の段階のようだった。
その様子をさきほどから、楽しそうにベイツが眺めている。
明日のスター紙は、また飛ぶように売れることだろう。
向かいの席が空いたため、ベイツがずるずると椅子をひっぱってきて、そこに腰を掛けた。
それにしても、ラスク。
イーストエンドの住民達が、彼の名前を口にするとき、それはまるで虐げられた民衆のカリスマか、あるいはマフィアの親分のように聞こえた。
ただの粗野な建築屋が、なぜそれほどまでに崇め立てられるというのだ・・・。
煙草に火を点け、一応リーズにも進めてみるが断られたので、こちらもさっさと話を始めることにした。
「僕は・・・バックス・ロウの切り裂き魔が、女を殺すところを見たんです」
「なっ・・・・・っと、うわっちち・・・・!」
ずっと椅子に座って、もじもじと指先をこまねいていたリーズが、思い詰めた表情で言ったのは、そんな衝撃の告白だった。
俺は叫びかけて、同時に口元から零れ落ちた煙草を、素手で掴み取り、掌に火傷を作りそうになったので、結局床に落とした。
とりあえず足元から煙草を拾い上げ、灰皿に押しつけて火種を消す、・・・まだ一口しか吸っていないのに、勿体ない話である。
いや、それはともかくとして。
「ゴドリー巡査部長、これ見てくださいよ」
不意に俺の手元へ、ベイツが1枚のスケッチが差し出した。
二人の男の顔が描かれた、黒い鉛筆によるドローイング。
かなり上手いこの絵には、非常に見覚えがあり、幸いなことに、それが誰だか俺はすぐに思い出した。
「リチャード・マンスフィールドじゃないか」
ストランドのライシアム・シアターで『ジキルとハイド』を連続公演中の、アメリカ人俳優である。
「やっぱりそう思うでしょう?」
ベイツが言った。
「違うのか? っていうか、お前何でここにいるんだよ」
「え、今その話ですか・・・」
「恐ろしい・・・恐ろしい・・・。二つの顔・・・男は女の背後から近づき、片手で口を塞ぐと、ナイフを振り上げ喉を掻き切り、地面に倒れた女に跨がって、腹を切り捌き・・・・内臓を取り出して・・・・ああ、何てことだ・・・止めなさい・・・止めるんだ・・・・神よ・・・!」
「ちょ・・・ちょっと、大丈夫ですか、リーズさん!?」
不意にリーズはガタガタと躰を痙攣させて、ただでさえ青い顔からは、完全に血の気が失せていった。
「ああ、また始まっちゃった・・・」
「暢気なこと言っている場合か! おい、ちょっとあんた、聞こえてるか!?」
「ああ、神よ、神よ、神よ・・・・」
「無駄ですよ。こうなると、一度気を失って目が覚めない限り、正気に戻りません。昨日も何度かあったんです・・・やれやれ。手伝いますから、どこか横になれる場所へ運んでやりましょう」
ベイツも立ち上がり、俺は彼と一緒に、リーズの躰を壁際の長椅子へ運んでやった。
その間もリーズは、ずっと錯乱状態で、意味不明な言葉をところどころに交えながら、ひたすら神へ救いを求め続けていた。
「まったく、厄介な男を連れて来てくれたもんだな・・・何なんだよ、こいつは一体」
「せっかく情報を提供しに来てくれた、市民の善意に対して、そういう言い方はないでしょう。で、リーズ氏に代わって僕から話を聞き出そうとは、思わないんですか?」
「どういう意味だ? そういや、さっきの絵は一体何なんだ」
「あれは昨日、女流の絵描きを呼んで、リーズ氏の証言を元に描かせた絵ですよ。エマ・プレンティスって知りませんか? ライシアム・シアターに今、大きなポスターが貼ってある筈なんですけど」
「ライシアム・シアターって今は『ジキルとハイド』を公演中だろ・・・まさか、あのポスターを描いている絵描きか!?」
道理で、咄嗟にマンスフィールドを思い出せたわけだ。
だが、そうなるとその絵描きの技量というのも、あてにならなくなってくる。
「言っておきますが、プレンティス嬢は他にも沢山、ポスターや肖像画を描いている、一流の画家ですよ。今回の絵は、彼女自身も本当に驚いていました。・・・ここのところは、修正箇所です。はじめはもっと髪が長かったんですよ。目もどちらかというと吊り上がっていたかな・・・でもリーズ氏が違うと仰るので、修正を加え続けて、最終的にこの絵になったんです」
警察の似顔絵作成を見ているから、その過程はよくわかる。
「じゃあ、本当に偶然だって言うんだな」
「当然です。リーズ氏がこの男を見たのは、8月31日の早朝だそうですよ」
「8月31日だと!?」
ニコルズが殺害された当日だ。
「ええ。それも午前3時頃だそうですから、ちょうど犯行時刻ぐらいかもしれないですね」
3時前にアザミの目撃証言があるから、犯行時刻より前か、下手をすれば犯行時刻そのものだ。
そんな話があるだろうか。
「今さらだが、見たといっても実際に見ていたわけじゃないんだろう?」
彼があの場で見ていたなら、リーズ氏らしき男が現場にいたという目撃証言が出てきてもよさそうだ。
もっとも、バックス・ロウの住人達の、俺たちに対するあの非協力的な態度を考えれば、これもまた、隠されている可能性がゼロではないが。
「彼は霊能力者ですよ。殺されたニコルズの霊が見せたか、あるいは彼自身の魂が肉体から離脱して、殺人現場を見てきたということだって、考えられます」
だんだん話が、俺の理解を超え始めていた。
「しかし、リーズ本人が『ジキルとハイド』に影響されている可能性だってあるだろう。どこかであの公演のポスターを見ていて、お得意の・・・ああ、なんだっけ、予知夢じゃなくて、超能力?」
「幻視というらしいです。このあたりに第3の目とも言うべき、異能の視力を持っていて、その目で彼らは、普通の人間には見えない物を見ることが出来るらしいです」
ベイツが自分の眉間の辺りを差して言った。
「よくわからんが、とにかくどこかで、女の絵描きが描いた絵を見ていて、それでそいつが犯人だと思い込んだんじゃないのか? それとも、事前に『ジキルとハイド』を見ていたのかもしれない、・・・なんだか怖いらしいじゃないか。そうだ、二つの顔ってのは、ジキル博士とハイド氏そのものだ。間違いないだろう」
連日満員御礼のライシアム・シアターでは、マンスフィールドが演じる、恐ろしいハイド氏のお陰で、ご婦人方の悲鳴が絶えないそうだ。
ボックス席にエドワード王子も来場されたが、真っ青になって途中退席されたそうである。
それでも、根がオカルト好きの英国人達は、けして劇場へ足を運ぶことを止めはしないのだ。
いや、だからこそ・・・と言うべきかもしれない。
「確かにライシアム・シアターへは行きましたね」
「ほら見ろ、やっぱり」
「夕べのことですよ。プレンティス嬢がチケットを何枚か持っていらしたので、絵を描き終わった後、彼女とともに」
「夕べなのか・・・」
「もちろん、僕もリーズ氏も初めての観劇です」
俺は改めて似顔絵を見た。
見れば見るほど、これはマンスフィールドだ。
長椅子のリーズは平和な顔で目を閉じており、当分起きる気配がない。
「だからってなあ・・・・これだけでマンスフィールドを引っ張るわけにはいかないだろ」
理由が幻視では、こちらからライシアム・シアターへ出向いて、話を聞くことすら難しい。
普通に考えて、マネージャーから門前払いにされるだろう。
「情報提供ですから、ご心配なく。今の警察が、石頭だってことは、批判記事を繰り返している僕もよく理解していますし、リーズ氏にも伝えてありますから。ですが、彼が言っていたことを、ちゃんと覚えています?」
「言っていたこと・・・? だから、ニコルズを殺した犯人を・・・」
「彼はニコルズだとも言っていませんし、バックス・ロウとも、8月31日の殺人事件とも言っていないでしょう」
「いや、だってさっき、お前が・・・」
「8月31日に幻視を体験したってだけですよ。だって、あの事件で起きていないことを、彼は言っているんですよ。犯人が遺体の腹から内臓を取り出しているのを見たと、リーズ氏は言いました」
「内臓・・・・」
確かにリーズ氏の発言をよく思い出してみると、そう言っていた。
だが、ニコルズの遺体が解剖されようとしていたことは、すでにベイツの『スター』紙を始め、あらゆる新聞報道で誰もが知っていることだ。
それほど、検死審問におけるルウェリンの発言は、センセーショナルだった。
「まあ、僕はリーズ氏から相談されて、彼をここへ連れてきただけですので、これ以上どうこうしてほしいとは思っていません。判断は、お話を聞いて頂いた巡査部長へお任せします。リーズ氏の話を、ただの妄想ととるか、もう少し様子を見るか・・・それでも、良いかも知れないですね。そうすれば、いずれ凄い真実と出会えるのかも知れない。ああ、リーズ氏が起きそうですね」
「お前、何が言いたい」
「僕はただの記者ですから、事実を報道するだけです。・・・まあ、記事内容が多少過激だとは、よく言われますが。ただ、あのニコルズ事件がそれ以外の殺人事件と同じだとは、僕にはちょっと思えないんですよ。あの犯人が、また何かをやらかしたら・・・。あるいは、リーズ氏はニコルズの霊に乗り移られたのでも、幽体離脱をしてバックス・ロウの事件現場を体験したのでもなく、予知能力で未来を見てきた・・・そんな真相が明らかになるのかも知れないと、ちょっと思ったんです。・・・リーズさん、起きられましたか?」
長椅子の前で身を屈めながら体調を訊いてくるベイツに、漸く半身を起こしたリーズは、呻くような声で、大丈夫だと返事をした。
「次の被害者が・・・そんな目に遭わされる・・・とでも言うのかよ」
躰を切り裂かれ、腹から内臓を取り出され・・・・。
「そうならないように、さっさと犯人を捕まえるのが、警察の仕事じゃないんですか? それでは僕もそろそろ社へ戻らないといけないですから。リーズさん、行きますよ」
「・・・・・・・・」
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