その日の午後、マルベリー・ストリート22番地のロッジング・ハウスへ警察が踏み込み、一連のホワイトチャペル連続殺人事件の容疑者として、ポーランド系ユダヤ人の靴職人、ジョン・パイザーが逮捕された。 昨日はレザー・エプロンが遂に逮捕されたという見出しで、飛ぶように売れていた新聞各紙が、翌日には、朝から警察の大失態を報じて、さらに売り上げを伸ばしていた。 さっき以上の関係にもしもなったら、そのときは全てを話してやっても良い。 あれ以上の関係・・・キス以上の関係というと、それはつまり・・・。 フレッドが・・・俺と? 「アバライン警部補は今・・・ヤードに戻られています。アンダーソン警視監は今回のことで、大変気分を害されているらしく、あるいはこのまま・・・」
直接逮捕に立ち会ったのは、主にホワイトチャペル署の捜査員達で、アンダーソンも現場へ出向いていた。
マルベリー・ストリートには群衆が押し寄せて、現場は異様な雰囲気に包まれており、もしもあのタイミングで警察がパイザーを逮捕しなければ、私刑も辞さないほどに、住民達は興奮しきっていた。
そういう意味ではこの逮捕劇は、パイザーへの、あるいはユダヤ人社会全体への憎悪や反発心の高まりの中において、避けられない出来事だったのかもしれない。
人々を煽っていたのは、やはり新聞報道だった。
多くの新聞がこの時期、一連の殺人事件の犯人を指す渾名として、『レザー・エプロン』という言葉を盛んに使っていた。
そして彼の住所付近において、レザー・エプロンといえば、それはそのままジョン・パイザーを指しており、加えて犯人像として報じられていた外見的特徴が、不幸なことに悉く彼と合致していたのだ。
・・・どう考えても、彼を知る人物が、悪意で記事を書かせたのだとしか思えない。
そういったことが重なり、日頃から鬱積していたユダヤ人たちへの反感も手伝って、住民たちは一気に凶暴化した。
群集心理の恐ろしさを、見せつけられるような出来事だった。
しかし、その日のうちに事件当夜の彼が朝まで家にいたことを、宿の主人や彼の家族が証言した為、アリバイ成立となり、あっさりとパイザーは翌朝に釈放された。
今朝早くにホワイトチャペル署を出て行ったパイザー氏は、聞いたところによると、その足で民事裁判所へ向かい、彼を名指しで殺人犯扱いした全ての新聞社に対して、賠償金請求の申し立て手続きを行なったのだそうだ・・・あくまで噂の話であるが。
賠償金手続きの真偽は定かではないが、いずれにしろ、取調官によると、なかなか頭が切れる男であることは確かのようであり、よもや全てが本人の演出だったとまでは思わないが、ある程度、計算した上での行動であったことは、間違いがないようだ。
いずれにしろ、罪もない市民が、殺人の冤罪を着せられて良いわけはないし、暴徒と化した市民から、不幸なユダヤ人職人を守る為、または騒ぎをこれ以上大きくしないための、苦肉の策の逮捕だったなどというのは、都合の良い言い訳でしかない。
騒ぎを煽る新聞も悪いのだと、泣き言を言ってみたところで、未だに犯人を野放しにしている警察を、免罪する理由にはならないだろう。
一日でも早く、殺人犯を逮捕しないと、信用は失われるばかりなのだが、この日も朝早くから、俺は上層部にがっかりさせられた。
夕べのうちにアバラインの命令を受けて、ミラーズ・コートに張り込んでいた捜査員二名が、仲良く揃って署に帰っていたのだ。
「その・・・アバライン警部補の命令で、至急戻るようにと・・・」
浮浪者の扮装のままで、自分の席に座り、報告書と格闘していたリード巡査は俺に教えてくれた。
出勤してくる職員達が、その光景を見るたびに、ギョッとした顔を見せてくれる。
「畜生っ、・・・おい、フレッドどこだ!」
アバラインに文句を言うつもりで、出て行きかけた俺の手首を、後ろからメイスン巡査が掴んで引き止めた。
彼はすでに、制服へ着替えている。
「あの、アバライン警部補を悪く言わないでください・・・アンダーソン警視監からの命令で、警部補も仕方がなかったんです。・・・その、たまたまドーセット・ストリートでCID本部の方々と鉢合わせてしまって、僕たちが張り込んでいることを、知られてしまったので・・・」
確かに本庁の刑事達なら、日頃、張り込み捜査などしていない、制服巡査達の扮装など、簡単に見破ってしまうことだろう。
現地で鉢合わせた時点で、彼らの負けだろうが・・・しかしだ。
「まさか、内緒で張り込んでいたのか?」
尋ねると困ったように二人は顔を見合わせた。
どうやらアバラインの一存で、彼らは派遣されていたようだった。
それが上層部の捜査方針と合わなかった為、即刻任務を解くように命じられたらしい。
仮にそれが現場の判断だったとしても、理由もなく張り込んでいるわけはないのに、腹立たしい話だった。
俺が出した報告書には、誰も目を通していないとしか思えない・・・・やりきれなかった。
「本庁は・・・というより警視監は、今回の連続殺人事件の被疑者を、移民のユダヤ人だと確信しています。ですが、ジョウゼフ・バーネットは生まれも育ちもイーストエンドのイギリス人で、警視監の犯人像には合わないのです・・・」
「何を言っているんだ、だってジョン・パイザーにはアリバイが合っただろう?」
「だから、彼以外のユダヤ人を・・・」
「ああ、もう頭痛ぇ・・・、どこにそんな証拠があるっていうんだよ、ただの偏見だろうが・・・畜生っ・・・」
俺は髪をかきむしりながら、長椅子にどかっと腰を下ろした。
これでは、あの冷静なアバラインがヒステリックに叫びたくなる気持ちも、よくわかる。
科学捜査も何も、あったものではない・・・我が国の警察機構が、威信をかけて創設した、CIDの警視監をしてこうなのだ。
やっていられない。
ふと・・・なぜだか、昨日アバラインと留置場でキスをしたことを、俺は思い出していた。
成り行きとは言え、なぜ彼は突然あのような行動に出たのだろうか・・・・しかも、別れ際にアバラインはなんと言った。
メイスンは悲痛な表情で俺に訴えていた。
「何だと・・・」
このまま・・・・まさか解任!?
俺は慌てて署を飛び出し、ホワイトチャペル・ロードで馬車を捕まえてヤードへ向かった。
俺のせいでアバラインが解任されるだと・・・?
冗談じゃない、そんなことをさせるものか。
「もう少し急げないのか?」
「何言ってんですか、これが限界ですよ。旦那は私の馬に、過労死しろって言う気ですか?」
馬車はストランドからトラファルガー広場を通過して、ホワイトホールへ入っていく。
庁舎が見えてきたところで、勢いで馬車を飛び出し、御者に悲鳴を上げられた。
「あとで払うから待っていてくれ、急いでいるんだ!」
「んな、馬鹿なっ! 誰が信じられるっていうんですか」
「どうしてもって言うなら、ベスナル・グリーン署の・・・いや、スコットランド・ヤードのアバライン警部補を訪ねろ! それならお前だって知っているだろう」
自分で名乗るより、通りが良いであろうアバラインの名前を出した。
本人には申し訳ないが、それなりの効果があったようで、御者はすぐに大人しくなった。
庁舎へ入っていき、通りすがりの制服警官を捕まえて、アバラインかアンダーソンの居場所尋ねる。
「アバライン警部補なら、恐らく今は、ヴァッキンガムに行かれていますよ」
「ヴァッキンガム!?」
なぜ王室が、一介の警官を宮殿に呼び出すのだ。
「実は今朝方、お客様があって・・・ああ、戻っていらっしゃいました。警部補、ホワイトチャペル署の方が、お見えになっています」
「いや、俺はベスナル・グリーン署なんだが・・・」
振り返ると、そこには少々不機嫌な顔をしたアバラインが、なぜか財布を仕舞いながら庁舎へ入ってきていた。