その後俺は、アバラインから腕を引かれて、職員休憩所へ連行される。
最初に彼の口から飛び出した話題は、庁舎の玄関前で、停まっていた馬車から、いきなり身に覚えのない乗車料金を請求されたことに関する愚痴。
次に、俺が朝っぱらからヤードに来ている件を追求された。
俺が素直に理由を説明すると、アバラインは盛大な溜め息を吐いたのち、少しだけ頬を赤らめる。
「なぜ俺が、何も失敗をしていないにも拘わらず、解任されないといけないんだ」
「え・・・じゃあ、警視監の機嫌を損ねて呼び出されたわけじゃないんですか」
「お前らは・・・自分達の上司を馬鹿にするのも、大概にしろよ全く。まあ・・・アンダーソンが、やや偏見の強い人だということは、俺も否定はせんがな」
そう言うと、アバラインは上着の懐から煙草を取り出し、マッチを擦って、手近な長椅子に腰を下ろした。
「良くないですよ、ろくに食べてないのに煙草は」
俺も隣に、腰掛ける。
「心配してくれるのか。悪い気はしないが、その程度で煙草を止めようという気にはならんな」
「どうせ何言っても、止めないんでしょう?」
「そんなことはない。・・・気になるか、煙草の臭い?」
「えっ・・・いえ、別に気になりませんけど」
署の連中は殆ど吸っているし、そもそも俺だって喫煙者だ。
アバラインほどは、多く吸わないというだけである。
というより、煙草の臭いなど、ホワイトチャペルやベスナル・グリーンの路地の臭いに比べれば、香水のように芳しいとすら言っていいだろう。
それも彼が吸っているような、高級銘柄なら尚さらだ。
なぜそんなものが、気になると思うのだろうか。
「そうか。・・・なら、吸わせて貰う。煙草でも吸ってないと、今はやりきれないからな」
なんとなくはぐらかされた気がするが、微かに微笑んだアバラインの表情が妙に柔らかく、そして艶っぽく感じられた。
それにしても・・・やりきれない、か。
そのストレスは、当然俺なんかの比ではないのだろう。
「あの・・・ヴァッキンガムに呼ばれていたって本当ですか?」
「フィルから聞いたのか」
「フィルって?」
「フィリップ・クロムウェル巡査・・・、お前がさっき一緒にいた、若い制服警官だ。結論から言うと、ヴァッキンガムに行っていたのは事実だ」
「行っていた、ですか」
呼ばれていたとは言っていない。
能動的に訪問したということだろう。
そして、回答が限定的であり、慎重な言葉選びである・・・ということは。
「ええと・・・これ以上聞くのは、やはり守秘義務ってやつに、ひかかっちゃうんですかね?」
「1日で随分と物わかりが良くなったじゃないか」
アバラインがニヤリと笑って俺を見上げた。
珍しい表情だ。
「あの・・・アンダーソン警視監と一緒だったんでしょうか、それとも、その・・・」
「リスクを負う覚悟が出来たのか?」
「えっ・・・」
アバラインは艶然と笑い、煙草を持っていない方の手で、俺の肩を撫で、腕を掠めて、手の甲を上から軽く握った後に離れていった。
その一瞬、少し悲しげに表情が歪んだように見えた。
「なんでもない。早いところ、馬車代を払ってくれって言っただけだ。・・・それじゃあ、俺はまだ警視監と話があるから、もう上に行くぞ。お前もさっさと、自分の仕事に戻れ」
そういうと煙草を持ったまま立ち上がり、階段へ歩いて行った。
仕方なく俺も、ホワイトチャペル署へ戻る。
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