夜更けすぎ、こっそりと家を抜け出た峻は、向かいの路地へと向かった。
「あれ……なんだろ」
  路地の向こう側が仄明るくざわついている。よく見ると道を塞ぐように車が停車しており、複数の人が乗降しているようだ。
  そのとき、ちょうど『ティアモ』の通用口が開き、思わず峻は自販機の陰に身を潜めた。
「おかえりなさい……!」
  飛び出してきた男のリーゼントヘアとスカジャンという、チンピラ感がハンパのないセンスに内心苦笑する。体格は峻よりもずっと小柄で、声も若く、男というよりも少年らしい。
「こら、リュウ。サボんじゃねえよっ! いつまでも店閉められねえぞ!」
  聞き覚えのある声と近さにドキリとして、自販機からそっと首を伸ばしてみた。黒スーツに身を固めた紅葉が、手にモップを持って出てきた。どうやら支配人自ら掃除をしているようだった。向こう側では、車から出てきたらしい男が二人、店の裏口へ向けて歩いてくる。
「伝票計算か? まだあるならやっておくぞ」
  後ろを歩いている人物が紅葉に声をかけた。恐らくはレンよりもまだ身長が高く、体格だけ見ればアグリア人かとも思ったが、ほの暗い街灯の明かりでさえ目に付く、暗闇に浮き上がるような白い肌は、どちらかというと白色人種に近い。だが、不自然のないカミシロ語を話すところを見ると、ひょっとしたらハーフかクオーターなのかもしれない。
「よう、志貴(しき)も賢(けん)もカチコミ御苦労さん。今日は団体客が来たから遅くなっちまってな。そろそろ終わるから気にしなくていいぞ」
「支払いの滞っているお客さんが最近ライバル店へ出入りしているらしいとエーファから聞いて、ちょっと俺達も挨拶に伺っただけです。外で人聞きの悪い言い方をしないでください、紅葉さん……。それから賢、そういうのはよくないと前にも言っただろう」
「そういうのって何だ? あ、紅葉さんこれ売掛金です」
「おう、毎度あり。……さすがトップ自ら乗り込むと、結果が違うな。現場想像すると怖ぇけど」
「だから甘やかすなって言ってんだ。いつまでたっても仕事覚えねえだろうが。人を育てることは年長者の義務だぞ。どんな奴だって早く一人前になりてえに決まってる。なあ、リュウ?」
「はい、社長っ! 俺も頑張って先生みたいになって、社長のお傍で……」
  賑やかな会話が途切れ、続いて扉が閉まる音が聞こえた。防音性の高い素材を使用しているのだろうか、閉ざされたドアの内側からは、既に会話はまったく聞こえず、静寂が戻った夜の裏通りに自販機のモーター音だけが低く空気を震わせている。
「あの人が……レンさんの……」
  声を弾ませたリーゼントの少年……リュウといっただろうか。建物へ足を進めつつ、彼が熱心に話しかけた相手の姿がまざまざと脳裏に焼き付いている。
  仕立ての良い黒スーツと、光沢のある赤いシャツ、大きな柄が目立つ銀色のネクタイ……服装のセンスは随分と特殊だが、綺麗な鼻筋と品の良い口唇の輪郭、遠目に見てもはっきりした二重瞼であろうと想像ができる大きめの双眸と、細い顎……繊細な雰囲気を持つその美貌は、店内から受けた明るい照明の中で、見る者の目を釘付けにした。そうそうどこにでもいないであろう美人。だが、雰囲気は違うが、良く似た美貌を峻は最近目にしていた。
「いつまでそこで隠れてる気だ?」
  カチリという小さな音の直後に、知っている声が聞こえ、心臓が跳ね上がる。辺りを見回すが誰もいない。ドキドキと高鳴る鼓動を繰り返しつつ、それでも峻が自販機に背を当てたまま潜んでいると、続いて足音が聞こえた。こちらへ近づいている。
「君は包囲されている。観念して大人しく投降しなさい」
「うわっ……」
  ぬっと黒い影が目の前に現れ、続いて手首を捉えられる。
「……なんてな」
「紅葉さん……」
  男に促されて陰から前へと進んだ。自販機の照明に照らし出される紅葉は、いつもの親しみやすい笑顔で煙草を吸っている。
「レンだったら今はいないぞ。今日は団体客が来て遅くなっちまったから、女の子達を送って貰ってる。まあ、そろそろ帰ってくるだろうけどな」
「べ……べつに、そういうんじゃないけど」
「ん? だったらなんでこんなとこにいるんだ。もしかして俺に乗り替えてくれたのか?」
  にゅっと顔を覗きこまれ、思わず峻は一歩退いた。
「そんなわけないでしょ!」
「ハハハハ! はっきり言ってくれやがる。もう少し遠慮ってもんも覚えろよー。それじゃあウチで雇えねえなあ」
「黒服やる気なんてないからいいですよ」
「そうだな、どっちかっていうとピンクのドレスの方が似合いそうだもんな」
「ますます、しないよ!」
「おう、それだけ物おじせずにテンポ良く言葉が返せるなら、素質はあるぞ。会話を途切れさせないのは、接客の重要なポイントだからな。ボトル入れさせるテクニックについては、ヘルプに付いて徐々に勉強していきゃあいい。それまでは愛想よく話してりゃあ、なんとかやってけるぜ。ギリギリ合格だ」
「なんでキャバ嬢なんだよ。俺は男だよ!」
「最近はそういう店も流行ってるらしいぜ。峻君にその気があるなら、『ティアモ』も新サービス開拓へ前向きに検討してみてもいいって思うんだがなあ……ハハハハ。まあ、冗談はこのぐらいにして……。で、レンに会いに来たわけでもねえってんなら、夜中の3時過ぎに何してんだ?」
「あの人……」
  なんと言おうか、……峻はそこで言葉を切った。
「ひょっとして志貴か?」
  紅葉の方から切り出し返事を促されて、峻は目を丸くする。連れだって店に戻ってきた、背の高いハーフに見える男性が確かに、そう呼びかけていた。
「どうして……」
  勘の鋭さに驚き、それ以上に動揺する。
「まあ焚きつける為とは言っても、あいつの事を君にバラしちまったのは俺だからなあ……ちょっと今は反省している」
  煙草を咥えたまま、紅葉は気不味そうに毛のない頭をポリポリと掻いてみせた。
  焚きつけるという意味はよくわからなかったが、その言葉はレンが片思いをしていると彼から明かされたときのことを、間違いなく指している。つまりあの人物が、レンの思い人で間違いないのだ。
「じゃあ、あの綺麗な人がやっぱり……」
  美しい人だった。
「確かに志貴は俺達のボスで間違いないが、……ひょっとして志貴を探りに来たのか?」
「いるんだね、あんな綺麗な人達が……びっくりしちゃった」
「人達?」
「言ったでしょ。大和と一緒にいた子……あの子とどことなく似ていて」
  マホロバ駅前で大和が肩を引き寄せながら、熱心に語りかけていた相手……彼とレンが思いを寄せる彼らのボスは、どことなくあの少年と似ていた。
「なるほどな。そりゃあ似ていて当然だ。何しろ兄弟だからな」
「兄弟……?」
  紅葉は一旦身を屈め、靴底で火種を消した吸殻を指先に摘まんだまま姿勢を戻した。
「話を聞いていたときはなんとなくそうかも知れないって思っただけだったが、これで確信が持てた。あいつは確かにここの経営者で俺達のボスだ。で、親父さんはカミシロ人なら誰でも知ってるようなちょっとした有名人で、俺が崇拝している悲劇の英雄だ……まあ、それはおいといて。親父さんも大した美形だが、お袋さんがまた儚げな美人でな。だから兄弟そろって、あの美貌なんだ。お蔭でウチじゃあ、男も女も全員そろって社長のシンパだ。男の癖に罪作りな奴だぜ、まったく……」
「そう……なんだ」
  あれほど綺麗な人なら、当然だろう。今の発言でこの紅葉も彼を憎からず思っていると白状したようなものだったが、同時にレンが今でも彼のボスを想っていることも念押しされた。 心が痛い……。
「ところで君を振ったって野郎だけどな」
「何……?」
  不意に紅葉が話を変えてきた。
「俺に言わせりゃあ振られて正解だ。アイツは碌な男じゃねえ」
「アイツって……」
  まるで大和のことも知っているという言い方に聞こえた。構わず紅葉は話を続ける。
「それでも君は、少なくとも想いを伝えた。それは勇気ある行為だ。誇りに思っていい」
「紅葉さん……」
  咥え煙草で目を細めながら、柔らかい表情で紅葉が微笑む。
「昼間はそれが言いたかったんだ。なんだか有耶無耶になっちまった揚句、君に余計な心配させちまったみたいだけどな。……バレたみたいだな」
「えっ……」
  紅葉の視線を追って振り返る。そして『ひもり』のガラス戸越しに、薄い灯りが点いていることに気がついた。おそらく厨房だ。仕込み時間には、まだまだ早い。
「大ごとになる前に帰った方がいい。どうせ黙って抜けだして来たんだろう?」
「うん……」
「それから、そろそろここに来るのはやめた方がいい」
「何言って……」
「俺個人としては、君みたいな可愛い子と仲良く出来るに越したことはないんだが、やっぱりご両親に心配をかけるのはよくない。今ならまだ引き返せるだろう?」
「それってどういう……」
「早く帰るんだな」
  一方的に会話を切りあげると、紅葉は笑顔を残したまま通用口へと消えてしまった。やるせない思いだけがザワザワと峻の胸を掻き立てる。
  遠くでガラス戸を引く音が聞こえて振り返ると、『ひもり』の入り口に小太りの女が立ってキョロキョロと通りを見渡している姿が、街灯の薄明りで確認出来た……パジャマ姿の母だ。紅葉が言った通り、峻の不在に気付いて探しているのだろう。帰った方がいい……それはわかっているが、このままでは到底眠れそうにない。
  峻は前を向くと、商店街とは反対方向へ足を進めた。

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