少女の名は扶桑悠希(ふそう ゆうき)といい、可愛らしい外見に似合わず年齢は瑞穂よりも一歳年上だった。並んでみると茶色い髪の小さな頭は瑞穂の肩ぐらいまでしか届かず、聞いても身長は教えてくれそうにないが、どう見ても百五十センチないだろう。体重も軽そうだった。
 カミシロの同盟国であった、ウィットリア軍の流出品らしき、フード付きのパーカーを、ワンピースのようにして着ており、グレイのレディースラバーブーツもウィットリア軍の流出品に見える。闇市ではカミシロ軍や駐留しているアルシオン軍のものはよく出ているが、ウィットリア軍のものは珍しい。真も同盟国ドゥーシェ軍の時計を持っており、それは病院長である父親にドゥーシェ軍将校の友人がいた為、プレゼントされたものだと聞いた。おそらく悠希の持ち物も、そうした特別なものなのだろうかと瑞穂は考える。
「どうして、アルシオン兵とトラブルになったんだい?」
 片目で瞬きを繰り返しながら大和が訊いた。蹴り上げられた砂利をまともに顔で受けたため、まだ痛みが残っているのだろう。真っ赤に染まった左目を見ながら、ちゃんと目を洗ったほうがいいのではないかと瑞穂は思う。
「あいつらが冷やかしてきたから……」
 そう言いながら、悠希は頬をプウッと膨らませる。
「まあ、そうだろうけどさ……、君は女の子なんだし、男と喧嘩しちゃあ駄目でしょう。俺達が通りかかったからよさそうなものを、一人じゃ絶対勝ち目ないじゃない」
「あなたには申し訳ないと思ってますし、感謝もしてます……でも、ムカついたし」
「気持ちはわかるけど、あいつらに腹が立ってるのは、君だけじゃないんだしさ。……それから、俺にはタメ語でいいよ。あんたの方が年上みたいだから」
「そうなの?」
 それから年齢を知って、悠希は目を丸くした。
「俺もこいつもあんたより年下。年上は真だけだぜ」
「なんだ、敬語使って損しちゃった。この子はともかく、あんたすごく背が高いし、大人っぽかったから。っていうか、どうしてあんた、そんなに生意気なの? 高校生のくせに」
 年齢が判明して態度が砕けた悠希は、軽妙な会話を大和と繰り広げ始める。そして、悠希が言うところの「この子」が自分であることは明白であり、年下の大和よりも背が低いという見た通りの事実を指摘されたばかりか、言外に子供っぽいとまで批評されたことに、少し遅れて瑞穂は気が付いた。
「まあ、別にいいけど……」
「何が?」
 大和と話している隣の悠希には届かなかった声が、いつもの通り先頭を歩く真にだけ聞こえており、瑞穂はギョッとした。
「何でもない……ええと、ちょっと水道があるところに、行った方がいいんじゃないかな」
 大和を指差しながら、真に提案する。
「ああ、あれは確かに痛そうね。……だったらウチに寄って行きましょう」
 ホウライ橋を渡った四人は大八島総合病院へ立ち寄り、大和の目を洗浄して、目薬を処方してもらった。
「悪いな、俺のせいで足止めちゃって」
「ありがとう。そんなことしなくていいのに……。目、大丈夫?」
 差し出された缶ジュースを大和から受け取る。同じように、向かいのベンチに腰掛けている真と悠希にもジュースを配ると、瑞穂の隣へ大和は腰を下ろした。
 病院へ到着する頃には真っ赤になっていた瞼は綺麗に腫れが引き、目の充血も治りかけていた。
「で、悠希は結局その兵隊さんに会えたのか?」
 公園にある自販機で買ったばかりの缶のプルタブを上げ、ガスの抜ける音を鳴らしながら大和は、目の前の少女へ問う。
「それって、何の話?」
 病院へは真が付き添い、瑞穂は悠希とともに閑散とした児童公園で、木陰を見付けて二人の帰りを待っていた。今の今まで悠希とともに時間を潰しながら、これといった話が弾むこともなかった、この一時間ほどを思い出す。
 悠希から聞かされたというより、質問をされて瑞穂が応えた話題は、主に真のことばかりだった。屈強なアルシオン兵二人と戦い、見事に悠希を救いだした真は、どうやらうら若き乙女である悠希の目には、颯爽と現れた白馬の騎士さながらに映ったらしい。そろそろ真の性別を明かした方がいいのだろうかと悩んでいたところへ、病院から二人が戻って来たのだった。
「ああ、どうやらこの辺に世話になった兵士の家があるらしいんだ。その人に会いに来たんだよな」
 それから改めて悠希は事情を説明する。
 生まれて間もない頃に空爆で両親を失くした悠希は、廃墟の中で助けてくれたカミシロ軍の兵士が彼女を引き取り、暫くは陸軍兵舎に住んでいたらしいのだ。そして終戦により軍が解体となった為、その後は児童養護施設へ預けられて中学卒業までをそこで過ごしたのだという。
「そうか……苦労してたんだね」
 終戦間際、アオガキ市はマホロバ大空襲と後に語られる空爆を受け、とくに首都機能が集中しているホウライ町では被害も大きく、死体の山となっていたそうだ。予告無く行われたこの惨劇が民間人の死傷者を出すことは想像に難くなかった筈であり、結果として一晩で十万人を殺戮した。これは明らかに、国際法で禁止される無差別爆撃によるところのジェノサイドだと、瑞穂は兄である志貴から怒りをもって教えられた。
 だが、目の前の少女は気丈に言う。
「そんなの、あたしだけじゃないです。あの当時は誰でもそう。施設にいた子達は、みんな空襲で親や家族を失いました。目の前でグチャグチャになった両親の死体を見た子だっていたし……あたしはそうじゃなかっただけ、まだ幸せ。……死に目には会えなかったですけど」
 語尾を小さくして俯くと、悠希は冷たい炭酸を呷るように呑んだ。
 天涯孤独の少女は小柄で儚げで、それでも強く生きようという意志の強さが、全身から漲っている。親の死に目に会えない辛さは、瑞穂自身が身に滲みて感じている経験だ。それでも瑞穂には頼れる兄がおり、母達がいた。
 父、叢雲に先立たれ寡婦となった母の淡路(あわじ)は、女手ひとつで二人の息子をきちんと育ててくれたうえ、父の遺志を受け継ぎ、今もヤチヨ山の一心朋友観音像を守り続けている。
 縁戚の岩屋戸月読(いわやど つくよみ)は、秋津家の遠縁にあたるもの静かな女性であり、目の前にいる悠希と同じく空襲で家族を失って以降、秋津家で共に暮らしている。志貴と同い年で、今年二十九歳になる月読は、兄弟が家を出てしまった今、淡路へ実の娘の様に傍らに寄り添ってくれる存在だ。目下のところ、婚期を逃しつつある月読に、嫁ぎ先を見付けてやれないことが、淡路の悩みの種となっているが、そんな月読の心に秘める相手が志貴であることに気付いていないのは、淡路と当の志貴本人であることを、瑞穂は十年前から理解していた。志貴の鈍感ぶりは、おそらく母譲りなのだろうと瑞穂は思う。
「その兵隊さんには、会えたの?」
 答えが保留になっていた大和の質問を、瑞穂は改めて悠希に尋ねる。悠希は空になったらしい缶を小さな手で弄びながら首を傾げて苦笑する。これだけで瑞穂は、聞かなくても、回答がわかった気がした。
「それが、まだなんです。……まあ、名前も、所属も階級もわからないんじゃあ、仕方ないんですけど」
 確かにそれは、難しいミッションかもしれない。
「陸軍兵舎っていったら、一番近所でもタマウチ町じゃないかな」
 真が記憶を辿るように言った。
「タマウチって、イスズじゃないか」
 イスズ市はアオガキ市の主要駅であるマホロバ駅から、南東に約八キロ離れた辺りに位置する、隣の市である。これといった商業施設や公共施設もあまりない、閑静な住宅街だ。瑞穂がパッと考えて思いつくのは、タマウチ中学校ぐらいだった。
「はい、あたしのいた施設がタマウチ町です。ってことは、すぐ近くに兵隊さんがいたってこと?」
「そいつはどうかな……軍が解体されたってことは、兵士も解散しただろうし、兵舎からみんな実家に帰っちゃっただろう。なあ、真、その兵舎って結構デカいのか?」
「さあ、私も直接見たわけじゃないから、そこまでは……けど、うちにも結構患者さんは来てたから、沢山住んでたんじゃないかな。確か、マホロバ防衛軍の兵舎だったと思うけど」
「マホロバ防衛軍なんてあったのか?」
「ほんの短期間だけどね。本土決戦に向けて新設されたんだって。……でも直後に大空襲やT弾投下があって、一年ぐらいで軍とともに解散になったけど」
 大和の質問に真が解説してくれた。
 その存在については瑞穂も志貴から聞いたことがあった。正式には陸軍第一総軍第十二方面軍マホロバ防衛軍であり、来る本土決戦と首都圏の警備を目的として、二六七一年八月に新設された。T弾投下があったのはその直後でマホロバ大空襲があったのが七カ月後だ。
「ありがとうございます、真さん。けど、マホロバ防衛軍の人ってことまでは、あたしも園長から聞いていて、軍にいた人を訪ねてみたりしたけど、当時はあたしみたいに戦争遺児になって、いろんな兵舎で預かられていた子供が多くて、誰がどの子を拾ってきたのかはわからないって言われて……」
「そうだったのね……あのときの空襲は、本当に酷かったから、仕方ないかも知れないわ。けど、諦めないで。私達も協力するから」
 そう言って真が笑うと、悠希は大きな目を潤ませ、ほんのり頬を赤くしたように見えた。
「なあ、瑞穂……まさかと思うけど、悠希って真のこと……」
 目の前で女二人が繰り広げる悩ましい光景へ、大和が遅ればせながら気付いて耳打ちする。
「多分」
 瑞穂が微かに頷くと。
「あいたたた……。真はそっちだからいいとしても、悠希は多分誤解してるだろうしなあ……。っていうか、一応助けたのは俺も一緒なんだけど、どうしてなんだ? 俺、怪我までしちゃったのに、ちょっと可笑しくないか?」
「真はストイックだから、わりと女受けはいいと思う」
「なんだよ、それじゃあまるで、俺が下心だらけみたいじゃん」
「違うの?」
「おいおい、お前まで酷くないか? 俺が下心でああいうタイプを助けるわけないだろう。見ろよ、まるきりガキだろうが。十九歳でアレだぞ? もしも俺が下半身で動くとしたら、もっとこう、出るところは出ちゃってて、色気があって、それでいてどこか儚いというか可憐でだなあ……」
「大和はそういうところが駄目なんだと思う」
 身ぶり手ぶりで自分がいかにいやらしいかを主張する大和に呆れ、瑞穂は溜息を吐いた。
 大和が下心で悠希を助けたわけではないことぐらい、瑞穂もわかっている。そして悠希が同じように身体を張って助けた真にだけ好意を示したことに、別に大和が嫉妬しているわけではないということも。単純に大和は、異性を相手に気を持たせることを言って、思わせぶりな態度をとりたいだけなのだ。そういうところへ瑞穂は少しばかり苛々としてしまう。
 おまけに、大和の思惑は残念ながら悠希本人にも通用しないばかりか、怒らせてしまったようだった。
「ちょっとそこのガキんちょ」
「は……、えっと俺……?」
「あたしは一応、あんたにも感謝してたし、お礼も言おうと思ってた。けどね、聞えよがしに侮辱されて、それでいて礼を尽くすほど、あたしは人が出来てはいないの。おわかり、坊や?」
 身長百五十センチ未満の少女に呼びつけられ、居丈高に説教を始められて、見目麗しい長身のファッションモデルである大和は茫然としていた。
「坊やって……。そりゃあ、確かにタメ語でいいとは言ったけど、いくらなんでも君にそんな言い方されちゃうほど、俺はガキじゃないんだけど……」
「ガキをガキ呼ばわりして、何が問題なのよ。大体さっきから聞いてりゃあ、年下の癖にその口の利き方は何? あんた中学出てんの? カミシロには敬語って文化があることも知らないわけ?」
「いや、あの……それ言ったら、瑞穂だって……」
「人のことをああだこうだと言う前に、自分から直したら? アンタみたいなガキ、小春園(こはるえん)じゃあ一晩でハブられるつうの」
 小春園とは、おそらくタマウチ町にある、悠希が育った児童養護施設のことだろうと、瑞穂は仮定する。
 悠希と大和が上下関係を確立しつつある光景を後目に、瑞穂はベンチから腰をあげると、飲み乾した三百六十ミリリットル缶を自販機の隣に設置してある屑籠へ収めにいった。すぐ後ろから、同じ缶がやや勢いよく投入され、振り返ると真が苦笑していた。
「あの子は刺激になっていいかもね」
「そうだね。大和もああいうタイプは初めてだろうし、きっと新鮮じゃないかな」
 ベンチに残っている二人を見ると、すっかり大和が大人しくなっている。悠希の説教はまだ続いているようだった。
「あんたはいいの?」
「何?」
「だって、また大和の周りに可愛い女の子近付けて、あんたがヤキモキするんじゃないかと思って……」
「変な勘ぐりは止めてよ……」
「隠さなくてもいいわよ。まあ、大和もダメよねぇ、あの子のああいうだらしないところ、本当にどうにかならないもんかしら」
「だから俺は、違……」
「逆に瑞穂はそれがダメなんだって。顔から態度から、全部出ちゃってるの、わからない? だから大和がつけあがるのよ。もっとシャンとしなさい」
「ごめん……。けど、俺は一応男……真?」
 瑞穂が自信なさげに、戸籍上の性別を主張しようとしたところで、真が顔を顰めながら、鉄製の屑籠の縁を握り締めていることに気が付いた。
「ったく……、このオンボロッ」
 瑞穂は思わず真の脚を見る。だが、繋ぎの裾をワークブーツに押し込んだその部分は、表面上なんともない。
「真、ベンチに戻ろう」
 瑞穂は手を差し伸べ、真の肩を支えようとするが、真はそれを嫌がった。
「大丈夫だって、何ともない。……さっき、暴れちゃったから、ちょっとだけね。結構休んだし、もう平気」
 気丈に言って笑って見せるが、鉄を握りしめている拳は、まだ開かれる様子がない。
「もう一度、病院に行って見せてきたほうがいいんじゃ……」
「本当に大丈夫。……父さんに見せたって、脚が戻ってくるわけじゃないんだから」
 差し出したままの瑞穂の手を強く押し返すと、真はベンチにいる二人の元へ戻っていく。
 ほんの微かにバランスを崩した真の歩行は、傍から見ているぶんには、健康そのものに見えるだろう。じかに脚を見せてもらうまで、瑞穂も真の左膝から下が義足だとは、想像もしなかった。いや、実際に脚を見てもまだ、信じられなかったと言った方が正しい。
 瑞穂が生まれる前である戦争中、アルシオン軍がアオガキ市で使用した生物化学兵器のT弾は、民間人を含む多くのカミシロ人を死に追いやり、また拭いきれない後遺症を残した。当時二歳だった真は爆風で膝から下が壊死し、止むなく切断したのだ。可愛い盛りだった一人娘を不具者にされた真の父である、大八島総合病院院長の大八島水蛟(おおやしま みづち)は、絶望し、酒に溺れた時期もあったと瑞穂は聞いている。
 そんな院長を支えたのは、一にも二にも医者としての使命感だった。水蛟は真を自由に歩かせてやりたい一心で、医療器具業者を訪ね歩き、技術者と研究開発を重ねて最高の義足を作りあげた。彼女の父親が娘に与えた義足は、剥き出しの状態で見ても、一見したところは普通の脚と変わらない。水蛟の外科医としての繊細な指先と最高水準の知識と、そして彼が関わり製造された義手、義足は、真と同じようにT弾に曝露して手足を失った多くの患者を救いだし、生きる支えとなった。その一点だけでも、大八島総合病院の存在が、どんなにかマホロバ府にとって、そして、カミシロ皇国にとって大きな存在であるかがわかる。
 たゆまぬ努力と情熱と、そして先端技術によって義足を与えられた真は、師範である氏森正平(うじもり しょうへい)の厳しい指導の下、涙ぐましい鍛錬もあって、本来義足で成し遂げられるものではないように思えるレベルの運動力を発揮している。不自由な膝下をカバーする為に、それ以外の筋力をこれでもかと鍛え、遂には格闘技の段位まで手に入れた。そして高いレベルの運動能力を持つ彼女だからこそ、どうしようもない義足の膝下にジレンマを感じ、左脚を庇って右足を酷使してしまうのだろう。
 おそらくは悠希を助ける為にアルシオン兵と格闘した際に、無理をして脚を痛めたのであろう真は、それでも傍目にそれを感じさせず気丈に振る舞いながら、ベンチへと戻ろうとしていた。瑞穂はそれを追いかける。その時。
「真」
 背後から男の声で呼びかける声を聞き、瑞穂は振り返る。そこには袖を捲ったドレスシャツの腕に、折り畳んだ白衣と黒いハードケースを提げた長身が、こちらを見つめて立っていた。正確には、瑞穂の後方で同じように足を止めている筈の、名前を呼ばれた当人を見ているのであろう。
「高天(たかま)先生……」
 真に呼び返された男は、瑞穂の傍らを通り過ぎる。瑞穂よりも数メートル後方で茫然としていた真は、近付いてくる男の眼鏡越しに浴びせられるその視線を、些か気不味そうに目元を歪めて受け止めていた。
「久しぶりだね。往診から戻ってみたら、君が来ていたと聞いて慌てて出てきた。どういうわけか、君とは擦れ違いばかりだ。いないときを狙って来ているわけじゃあないと信じているけど……」
 恐らくは病院へ戻ったその足で、荷物も置かずに真を追い掛けて来たのであろう男は、そう言って彼女と裕に五メートルは離れた場所で足を止めてしまう。二人の間に空けられたままの間隔が、恐らく心理的な距離の遠さなのだろうかと瑞穂は考えた。
「まさか……そんな子供っぽい真似しないわよ。それじゃあ、急いでるから」
 素っ気なく告げると、真は早くも男に背を向けた。
「院長には会ったのかい? 君をずっと心配している。脚は平気かい?」
「大丈夫。メンテナンスの仕方はわかっているし」
「君の事だから、無理をするなと言っても無駄だろうけど、たまにはちゃんと、診てもらうんだよ。……それから、僕のことは気にしなくていい。毬矢(まりや)と話しにくるだけでもいいから、またうちに遊びにおいで」
「……」
 返事のない真の背中へ一方的に告げると、男は伏し目がちに瑞穂へ目礼し、来た道を大八島総合病院へ向けて引き返して行った。少しの間だけ医師を見送り、瑞穂は真を追い掛ける。
「……なんか、変なとこ見せちゃったわね」
「そんなことないけど……高天先生のこと、放っておいていいの?」
「だって、どうしようもないでしょ」
 言葉では短く切り捨てつつも、真の表情には、隠しきれない後悔がありありと現われていた。瑞穂はもう一度振り返る。白いシャツの背中が、少し寂しそうに公園のゲートを出ていく姿がそこにあった。
 カミシロの首都、マホロバ府において、大八島総合病院は帝大病院に次ぐ大きな総合病院だ。真は病院長の一人娘であり、後継者たる血縁者が他にいない院長が彼女に婚約者をとらせたことは、けっして不自然な成り行きではなかったことだろう。三十二歳で外科医長である高天夏月(たかま かづき)は、終戦間際の空襲で両親を亡くし、父親の親友であった院長は、一回り離れた夏月の妹である毬矢とともに二人を大八島家へ引き取って、実子同然に育てた。戦争遺児が世に溢れていた当時、こうした出来事が珍しくなかったことを、瑞穂は自分の家を見てよく知っている。
 優秀だった夏月を院長は当然のように医大へ進学させ、大八島総合病院へ迎えた。そして真が高校を卒業した三年前に、二人は婚約者となったのだ。
 だが真は早い時期から自分が同性愛者であることを認識しており、事実上兄妹のようにして育った夏月も、そのことは理解していた。この婚約が形骸化していることは、二人の間で共通認識とすらなっている。それならば婚約など、最初からしなければよいのだが、妹とともに院長には並々ならぬ恩義がある彼に断る権利などないと夏月は思っており、真もまた、父親に逆らう勇気がない。
 真は高校までを私立の女子校である城南女子学園で過ごし、元看護婦である母親と同じように、マホロバ女子医科短期大学看護学部へ進学して、この春卒業したばかりだ。国家試験を受験しなかったことは、真が初めて父親へ見せた反抗だったが、結婚後は母親と同じく家庭へ入ればよいと考えていた父が、これを大きな問題としなかった。だからこそ、真が家を出て瑞穂たちと共同生活をしながら、本格的に桜花で自警活動をしたいと言った時、水蛟は娘に生まれて初めて手をあげた。そのまま碌な話し合いもせず、真は家出同然に大八島家を飛び出して今に至る。
「瑞穂、真!」
 ベンチへ戻った途端、テンションの高い声で大和が二人の名前を呼んで立ち上がる。
「何よいきなり。……悠希に怒られてもっとシュンとしているかと思えば、そうでもないみたいね」
「説教はちゃんとしておきました。また必要があれば、いつでも」
 そう言って、どこか得意そうに微笑むと、大和に倣って悠希も立ち上がった。
「それより、悠希がいい情報持っていたぜ。桜花のホームレス化は免れちゃいそうだ」


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