「思い出しても寒気がする」
 丸太町通りへ出た瞬間、スマホにライン通知があり、見知らぬIDに「沈丁花」と書いてあったことに気が付いて、犬山はその場でブロックした。内容はキスマークのスタンプだった。
「犬山君……」
「あ、すいません瀬川さん……、また起こしちゃいましたかね。本当、寝てても……」
「気持ち、悪……」
「えっ……って、まさか……」
 犬山は慌てて瀬川を下ろすと、その場で蹲り、胃の中身を吐きだす瀬川の背中を優しく擦ってやった。
 咄嗟のこととはいえ、蓋が空いた側溝を見つけた自分にグッジョブと、内心親指を立てる。
 少し落ち着いたらしい瀬川に、タオルハンカチを出してやる。
「ごめんね、犬山君……洗って返すから」
「いっすよ、そんなん……ちょっとだけこのまま休憩してから……瀬川さん……?」
「犬山君……」
 ハンカチを握りしめた瀬川が、声を震わせて犬山の胸に倒れ込んできた。
「あ、あの……ええと……」
 犬山はどうしたものかと途方にくれる。不用意に身体へ触れることは、なんとなく気が引けた。
「あたし、どうしていいのかわかんないよ……仕事はちゃんと出来ないし、夢も中途半端なまま投げ出して……それに……」
 瀬川はそこで言葉を切ってしまう。
「それに」の後に続くのは、きっと、上手くいかない恋への苛立ちだろうか……。そうえて犬山は苦笑した。
「なんだ、結構痛いや……」
「あ、ごめん……重いよね、あたし……。腕痛い?」
 何を勘違いしたものやら、瀬川が身体を起こして犬山を見上げる。潤んだ瞳がキラキラと光って綺麗だと思った。
「平気っすよ、こう見えて結構鍛えてますから。大丈夫そうなら、もう行きます?」
「そうだね……ああ、歩くからいいよ。……ごめんね、迷惑ばっかりかけて」
「やめませんか、それ」
「えっ……い、犬山く……」
 不意にたまらなくなり、犬山は目の前の先輩女性を後ろから抱きしめた。
 先ほどはビール臭いと思った筈なのに、瀬川の身体から漂う甘い香りが犬山の理性をぎりぎりまで追い詰めた。
「瀬川さんはちゃんと頑張ってますよ。仕事も、……恋も」
「やだ……何言って……」
 小さな瀬川の手が、犬山の腕にかけられる。アルコールが回った身体は熱かった筈なのに、その指先は驚くほどひんやりとしていた。
「大体俺の方がよっぽど仕事で迷惑かけてんすから、瀬川さんがそんなこと言ったら、俺、立場なくなるじゃないっすか」
「それは当たり前、比べるほうが間違ってるでしょ」
「ハハハ、言うっすね」
「もう……本当に、どこまで知ってんだか……」
 瀬川の小さな頭が俯く。
 何を考え、どんな顔をしてるのか気になり、横から覗き込もうとして、思いがけずボタンが開いていた襟の隙間から、深い胸の谷間とブラジャーのレース素材が目に入り、犬山は慌てて顔を背ける。
「あ、えーと……帰りましょっか」
 そして腕を解くと瀬川を追い越して先を歩く。
「明日早いもんね」
 後ろから追いかけてきた瀬川が犬山の隣に寄り添ってきた。



end


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