『お仕事びより、酒びより』

 Side:瀬川

 頬にあたる風が少し冷たくて気持ちよかった。
 重たい瞼をなんとかこじ開け、視界不良の景色を確認しようと努力する。
「幽霊マンション……?」
 暗闇にぼんやりと浮かぶ、コンクリート打ちっぱなしのメタボリズム建築は、日中訪問した有名な心霊スポットだ。
 オーナーの娘が八階から飛び降り自殺したとか何とか……。
 とにかく、鍵屋とスーパーマーケットに挟まれたこの心理的瑕疵物件は、人が居つかなくなったせいか、スタイリッシュさのみを追求したコンクリートの打ちっぱなしが、住環境的に不評だったせいか、四年ほど前に取り壊され、今はベージュを基調とした温かみのある外観にリニューアルされ、内装もマンション名もすっかり新装されて……、あれ、そうだ、 既にこの幽霊マンションは建て替えられている筈。
「なんで……?」
 アルコールが回り切った頭を奮い起こし、瀬川あすか(せがわ あすか)が身じろぎをすると、彼女を背負っていた大柄な犬山倫太郎(いぬやま りんたろう)が非難の声をあげた。
「ちょっと、急に動くと危ないっす。落としちゃいますよ……つか、やっと起きたんすか?」
「あれ……犬山君……なんで……?」
「そっす、犬山っす。水森さんじゃなくて申し訳ないっすけど、もう少しだけ我慢してくれますか? あと、十五分ぐらいで多分着くと思うんで」
 犬山がなぜ自分を背負って歩いているのか、またなぜ自分が幽霊マンションの前にいるのか、瀬川には何もかもが理解不能だったが、それよりも。
「ねえ、さっき幽霊マンションあった」
「そっすね、ここ丸太町通っすから。撮影所の方に向かう道すがらにホテルがあるんで、もう少し寝てていいっすよ」
「そうじゃなくて……今あったんだよ、幽霊マンション」
「はいはい。そっすね」
「違う、だから、あたし本当に見たんだよー」
 目の前の大きな肩を両手でがしっと掴み、酔っ払いの女が後輩ADの顔を覗き込もうとする。
「わかりました、わかりましたから……その、大人しく……」
「こらー、先輩の話ちゃんと聞けぇー」
「聞いてるっす、聞いてるっすから、お願いですから、それ以上押し付けないでください……」
 自分が何を見たのか必死に訴えようとしていた瀬川は、無防備な身体を無遠慮に押し付けられている二十代前半のいたって健康な若者の内側で起こっている、理性と煩悩の闘いを目の当たりにして、その苦悩も理解できず、ただひたすら、後輩が自分の話をまともに聞かない苛立ちだけを糾弾していた。
そして、自分が本来何に怒り、何に苦しんでいたを徐々に思い出していた。


 第一印象は「綺麗な人」だった。続いて「やる気ねぇんなら帰れ」と怒鳴られ、「口が悪い人」に変わり、最悪な印象は日々更新されていった。
 これでも瀬川は、芸能事務所に所属する将来性有望な女優兼モデルだった。有料で演技指導も受けており、名前もつかない端役だが、映画やドラマ出演の経歴も多数持っていた。
 コツコツと積み上げてきた努力のせいか、最近になってようやく主役に近い出演依頼が来るようになったが、どれも瀬川の意向に反する仕事ばかりで拒否し続けていたら、そのうち事務所から呆れられて契約更新をしてもらえなくなった。つまり馘になったのだ。
 社長から電話で言われた言葉は今でも忘れない。
「少しぐらい可愛いって言っても十人並みの外見で、二十歳を過ぎて脱ぐのもNGなんて、使えるわけないでしょ」
 これまでマネージャーとしか殆ど喋っていなかったから、社長がそう見ていたと思い知らされてショックを受けた。
 辞める寸前になると、依頼が来た仕事は実際に、成人男性向けの媒体で、乳首と局部をかろうじて隠しているだけの、肌を大きく露出させたものしかなかった。
 無駄に胸が大きいせいか、そういう作品の出演依頼が多くなる可能性は、デビュー当時にマネージャーからも指摘されていた。それを踏まえた上で、瀬川にアダルト路線で仕事をする意志がないことは、事務所側も了解している筈だったが、現実には本人が望む、「母校の恩師に見せて恥ずかしくないような作品」への出演依頼など皆無だった。もちろん、そのための演技力も、女優としての存在感も、瀬川に足りないせいだと言われてしまえば返す言葉もないのだが。
 ともあれ、事務所から「使えない」と引導を渡され、失職した瀬川は、それでも芸能界への未練を断ち切れず、SNSなどを使って自分を売り込み、また、「出演者募集」のキーワード検索をかけて、ボランティアのエキストラを含む様々な作品へ応募を重ねた。
 そんな彼女にコンタクトをとってきたのが、太陽企画のプロデューサー、八坂千寿(やさか ちとせ)だった。役柄は「地縛霊」。女としては身長が高く、当時は髪が長かった瀬川の雰囲気が役にぴったりだったという。撮影現場にいたのは、その映画でメガホンを取っていた、他ならぬ水森龍平(みずもり りゅうへい)だ。
 最初のシーンは、雨の夜、会社帰りのサラリーマンに瀬川が覆い被さり、その首を絞めながら顔を近付けるというもの。
 このシーンで、水森が求めたのは互いの鼻が触れ合うほどの接近だったが、そうするとどうしても胸が大きな瀬川は、相手の男性に乳房を押し付けてしまうことになる。リハーサルからそれが気になり身体が強張っていた瀬川は、続く本番でもNGを出して、すぐに水森から怒鳴られた。
「やる気ねぇんなら帰れっ!」
 そこからは、全てを割り切って演技に集中した。スタッフ達からセクハラ発言をされようと、相手の俳優から不必要に身体を触られようと、瀬川は堪えきった。
 そして撮影終了後、水森本人から声をかけられた。
 役者以外の仕事にも興味があるなら、俺の他の作品に出てみないか、と。それが、『呪いの伝説』シリーズだった。
 『呪いの伝説』は、DVD販売をメインにインターネットストリーミングやケーブルテレビなどでも視聴可能な、心霊ホラーエンターテイメントの人気シリーズだ。視聴者からの投稿動画を主軸に投稿者へインタビューをしたり、撮影現場で取材し、それらを検証したりという、一連の記録を収録したドキュメンタリー作品でもある。そのため、メインでカメラを構えるディレクターや取材を行うADといった、本来であれば裏方のスタッフ達が表に出て出演するため、例えば桜田直也(さくらだ なおや)のように、作品へ長く携わっているイケメンのスタッフは、まるで人気のアイドルのように強力なファンがついたりする。裏方でありながら、表舞台に立てるチャンスでもあった。
 それが女優志望の瀬川がやりたい仕事かと言えば、もちろん否である。しかし、長らく服の下しか求められなかった瀬川にとって、水森の申し出は久しぶりのまともなオファーだった。それがたとえ、彼女の演技力や存在感を求めてのものではないとしても、純粋にうれしかったのだ。
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