週が明けて月曜日のこと。
「よう、峻じゃん!」
「え……ああ、おはよう」
靴箱の前で一緒になった男は、峻に寄りそうと、そのまま教室まで付いてきた。
「久しぶりだね」
「まあ、ちょっと色々忙しかったからさ……よう、おはよー」
生徒でごった返す、朝の昇降口から、教室のある東棟へ進み、二階へ向かう。薄暗い階段を上っている間も、ひっきりなしに女の子が連れ添っている男へ嬉しそうに声をかけた。そして男はいちいち、完璧な笑顔を向けては、それらへひとつづつ応える……全てが峻には見慣れた光景だった。ただ一点を覗いては。
「あ、あのさ……」
峻は自分の肩を指して、言葉に表さずとも、それとなく相手の注意を促した。正確には、靴箱の前からずっと自分の肩を抱いたままの、男の骨ばった右手を、である。
「どうかした? あれ、峻……なんか今日、いい匂いしちゃってない?」
「きっ、気のせいだろ……」
いつもなら声をかけてくる女の子達のうちに、素早く気に入った相手を見付けて、その輪のうちへ引き寄せられていきそうな男が、この日ばかりはどういうわけか、ずっと峻の傍を離れようとはしない。それだけならまだしも、親しげに峻の肩を抱き、ますます身体を寄せて、思わせぶりに首筋へ、整った顔さえ埋めてこようとしている。
「そんなことねえって……なんか甘い匂いしてる、なんだろ……」
「やめろって、葦原っ……」
峻は思わず相手を姓で強く呼び、拒絶の意思を示す。すると葦原大和はキョトンと目を丸くしさせ、次には大人しく身を引いた。
「はいはい……悪かったよ、日盛君」
そして大和も峻を姓で呼び返すと、肩を竦めてあっさり背を向ける。そして先に教室へと向かった。
つい最近までは多くの他の生徒同士と同じように、確かにお互い姓で呼び合っていた。そしてあの日、峻が大和に好意を伝え、大和が峻を振り、なぜかデートとセックスをしたときから、二人は名前で呼び合っていた筈だ。しかし、確かに大和は峻を振り、峻も別の恋をスタートさせた今、互いの距離感を告白前に戻すことが正しいと峻が感じていたのは間違いない。だからこそ、いつまでも馴れ馴れしく、気分次第で思わせぶりな態度をとる大和に峻は腹が立ったのだ。だからといって、何の前置きもなく、いきなりわざとらしく距離を置くような態度は、さすがに大人げないというものだろう。
「やっぱり、マズイよな……」
チャイムと同時に教室へ入ると、すぐに担任教諭の加賀が、峻を追いたてるようにして後へ続いた。ぼんやりとホームルームを受けている間に反省し、大和に謝ろうと決めたものの、この日の大和は疲れていたのか授業中も休み時間も寝てばかりで、機会が掴めない。昼休みの間じゅう、瞼を閉じて机に突っ伏したままの、嫌になるほど整った横顔を暫く眺めているうちに、予鈴が鳴ってしまい諦めて教室を移動する。5限目は加賀の体育だ。
あれからずっとレンは『ティアモ』へ来ていないようだった。あの日、ヨミザカ駅のガード下へ駆けつけてくれたレンや紅葉達へ、峻が誰に連れ去られたかを教えてくれたのは、早朝、路地の入口で擦れ違った、エーファというホステスだった。擦れ違った直後、彼女はチーセダに絡まれている峻に気付き、店内にいた紅葉やレンに報告をしてくれたらしい。そして手分けして周辺を走り回り、レンが見付けだしてくれたのだ。峻の方ではエーファの顔も覚えていなかったというのに、エーファはときおりレンに会いに来る峻の存在を紅葉達から聞いており、直接店で顔を合わさずとも、姿形の特徴を覚えていて気に掛けてくれたのだと思うと、礼の言葉も見つからないほど胸がいっぱいになった。翌日、ホステスの出勤時間に合わせて『ティアモ』を訪ね、峻はエーファに感謝の気持ちを伝えた。
「律儀な子ねぇ、わざわざありがとう。でも残念ながらレンちゃんは暫くお休みみたいよ。なんならアパートまで行ってみる? 住所は支配人が知ってると思うけど。……ああ、でも峻君がお見舞いに来たら、また興奮して傷口開いて長引いちゃうか」
あの日の早朝と同じように、キラキラ輝いているポップで可愛い女性が、邪気のない顔で笑っていた。傍で話を聞いていた紅葉も、レンではなく、峻の身の為に、自宅訪問は反対だと主張をして、結局住所は教えてくれなかった。自分で思い付きもしなかった癖に、エーファに提案されて、少し期待していただけに、峻はガックリ肩を落として、この日は早々に『ティアモ』から引き上げた。そしてなぜ峻が訪ねるとレンが興奮して傷口が開くのかについては、翌日、学校帰りにばったりと道端で出会った紅葉が教えてくれた。
「まあ考えたら峻君は気ぃ失ってたからなあ……実はあのとき、レンの野郎、包帯が血塗れになってたんだよ」
「ええっ……、レンさん大丈夫なんでしょうか」
自分で口にしてから、馬鹿なことを言ったと思った。レンは峻を庇って大怪我をした。そして意識が戻らないレンに、それこそ永遠の別れになるのではないかと不安になり、傍らで祈り見守っていたのは、峻自身だ。しかし、直後目を覚ましたレンが峻を求め、峻もその気になり……最初のうちこそレンの怪我を気遣ったが、最中にその意識も薄れ……結局どうなったのだろう。気付けば一人で『ティアモ』のバックヤードに寝かされていた峻は、詳しい状況を知らない。
紅葉は咥え煙草で目を細めながら話を続けた。
「まあ、あいつがどうだったかは峻君だって見て知ってただろう? なのに、君が身体を許してくれて、理性が吹っ飛んじまったんだろうなあ……。普通でも全治2週間はかかる怪我だってのに、あの馬鹿」
紅葉によると、どうやら自分と行為へ及んでいる最中に、縫合した傷口が開き、紅葉がやってきたときには、背中を血塗れにして、峻を抱き締めながら、結合も解かずに顔を青くしているという、ぎょっとするようなありさまだった。そして峻はというと、行為の名残も露骨な生々しさで、本人曰く、レンという化け物から紳士の紅葉に救出された……ということだった。
「そ、それはどうも……」
あの状態を見られた……。峻は激しく羞恥する。
レンの容体が気になっていたというのに、自分の痴態を目撃したという紅葉と、とてもこれ以上顔を突き合わせて話をする勇気はなく、峻は早々に頭を下げると、自宅へ引き返した。
しかし、心配していたレンについては、その日の晩に本人から直接、峻の携帯へ連絡があった。自分の方がよほど重傷だというのに、最初に峻の身体を心配され、安心させた後で、同じ質問を返した。
「あの後すぐに、先生に縫合し直してもらったから、今は大丈夫だぞ。鎮痛剤も服用しているから、痛さも大したことはない。普通のカミシロ人なら確かに支配人が言う通り2週間はかかるもんらしいが、俺はアグリア人の血が混じってるせいか、こういう怪我の治りが幸いにして早い方だからな。安静にしていれば、すぐ元気になるだろう」
いつもと変わらぬ声で応えられ、電話は間もなく峻の方から切った。本音を言えば、いつまででも話していたかったし、それこそ許されるなら、直接見舞いにも行きたいところだったが、今は安静にしていることが本人の為だ。
それから5日……レンとは未だに会っていない。
放課後、日直の仕事を済ませた峻が遅れて教室を出ると、漸く校門前で起きている大和を発見する。
「やまっ……」
呼びかけようとしたが、そこで声を引っ込めた。よく見ると大和の陰に隠れるようにして、2年の学年章を付けた小柄な女子が歩いている。その手は互いに繋がれていた。
「何だよ、まったく……」
気が抜けて峻はそれ以上の追跡をやめると、その場に立ちつくす。
朝っぱらから絡んで来たのは大和の方だったというのに、峻が少しつれない態度をとっただけで、放課後にはもう別の相手を見付けている……節操がなさすぎて怒る気にもなれない。だが、考えてみると大和は最初からこういう男だった……今頃気が付いた自分こそが情けないと思う。
歩調をさきほどよりも遅くして、峻も帰路へ向かった。そして路上駐車中の黒い車の傍を通った瞬間、不意に至近距離で、短いクラクションを鳴らされ、峻は驚き、大きく車から退いた。
「ヘイそこのベイビー、お茶でもしない?」
車の運転席は、ウィンドウが下ろされている……いや、よく見ると左ハンドルなので、助手席側だ。
「うわあっ……って、えっと……紅葉さん?」
下ろされた助手席の窓からから、スキンヘッドの男が人の悪い笑みを浮かべて身を乗り出していた。続いて車の奥から咳払いが聞こえる。
「……と、レンさん……、もう大丈夫なの?」
峻が名前を呼ぶと、気不味そうにレンがチラリと視線を合わせてくれる。
「ああ」
あれから一週間。
療養に専念していたレンはずっと仕事を休んでおり、『ティアモ』の店頭には、リーゼントの少年が似合わない黒服を着て立っていた。だが、代役が務まったかどうかは随分と疑問が残り、店先でたびたび酔客に絡まれては、中から紅葉が飛び出してくるという光景を、峻は何度となく目にしていた。お蔭で紅葉も、レンがいないこの一週間は大忙しだったようだ。
「よかった……歩けるようになったんだね」
「お前こそ、もう大丈夫なのか……峻?」
「うん、俺は平気だよ」
「あー……っと、俺はお邪魔ですかねぇ?」
路上と運転席で交わされる、どこか甘い会話に挟まれた助手席の紅葉が、たまらないと言った感じにわざとらしく大きな声を上げた。峻は焦って顔を赤くする。
「そ、そんなことないよ、何言ってるの紅葉さん……っていうか、今日はこんなところで仕事?」
「まあね。正確には仕事の帰りかな……ちょっとばかし、支払いの悪いお客さんのところに行ってたからね」
「ふうん、そうなんだ……」
詳しい話は聞かないでおこうと峻は思い、峻は曖昧に言葉を濁した。この二人に揃って乗りこまれたら、どんなに財布の状態が苦くても、ATMへ飛び込み全額精算させられそうな気がする。実際は、ATMで済めばまだいい方だったが、峻がそれを知るのは高校を卒業してからの話だ。さらに、彼らのボスが乗り込んだときには、血の雨さえ降ることがあるのだが……それはともかく。
「ところでさ……言った通りだったろう?」
「えっ……?」
言われた意味がわからず峻が首を捻っていると、紅葉から視線で促され、路上で再び前を向いた。そこには交差点があり、信号待ち中に女子とキスをしている、背の高いクラスメイトの姿があった。だが、それを見ても何とも思わない自分がいることにも峻は気が付いていた。
「うん、そうだね」
「おや、随分とあっさりしてるね。さすがに大人になっちゃうと、キスぐらいじゃ驚きもしないか? それとも、別の男から野獣のように求められて、ちょっとやそっとじゃ傷付かなくなったかい?」
「支配人……それはセクハラです」
「おっと……死にそうな怪我しながら、純朴な少年相手に相手が失神するまでチンチン突っ込んでた野郎が、また常識的なことを……」
「あははは……。まあ、紅葉さんの言う通りかもしれません。けど、それ以上に前向きになれたことが、俺には大きいかな」
「それは興味深いな。どういう心境の変化だい?」
「大したことじゃないです。ただ、多分紅葉さんのお蔭で、大和よりもずっと好きな人がいるって、やっと気付いたから……」
言いながら、思わず車の奥を見つめる。
「ヤけるねぇ〜。やだやだ、青春しちゃって。そいじゃあオッサンはここらで退散しますか」
苦笑しながらそう言うと、目の前のドアが大きく開き、本当に紅葉が中から出てきた。
「紅葉さん?」
「最近、運動不足でねぇ……おい、じゃあ後頼んだぞ」
「店まで歩いて帰るんですか、支配人?」
「少しは歩かねえと、腹が出てきちまって情けねえったらありゃしない……じゃあな、峻君」
「えっと、はい……ああ、でも俺も方向おんなじだから……」
戸惑いながら、先に歩き始めた紅葉を追い掛けようとする。だが、すぐにもう一度クラクションが鳴らされた……鳴らし方が先ほどと全く同じだ。
「レンさん……?」
振り返ると、いささか助手席側へ身を乗りだし気味のレンが、開けたままのドアから顔を覗かせている。
「峻、乗って行け」
「えっと……でも……」
開放されたドアと、どんどんと車から離れていく紅葉を見比べる。そして漸く紅葉が気を遣ってくれたのだと気が付いた。
「あ……うん!」
そして峻は引き返すと、自分の為に空けられたシートへと収まった。
fin.