4.孤独なカルガモ。あるいは盲目。


 一緒に地下鉄へ乗り、カジャオ駅で別れたハビは、その後乗り換えの為に三号線へ向かった。駅ひとつ離れたソル駅付近に、従兄の達也が借りているピソがある。そこへ行くのだろうと察する。僕はそのまま乗り続けてグランビア駅で降りると、1号線でアトーチャ駅へ向かい、チューファへ戻るために国鉄へ乗り換える予定だったが、気紛れを起こしてプラガ通りを北上し、今は植物園の中にいる。
 ハビと言い争い、最後は言い負かされた午前中の論争を、僕は憂鬱な気持ちで思い巡らしていた。時計を見ると、すでに正午近かった。日が高くなり、いくらか気温が上がって来たせいか、園内にもチラホラと観光客の姿が目につくようになっている。ガブリエルの前で寸劇を繰り広げていたラナFCの選手たちも、もう帰っただろうか。
 ベンチの足元には堆く地面を覆いつくす、黄葉したポプラの葉。落ち葉を踏みしめながら、静かにベンチへ腰を下ろす。  コートのポケットから手に当たるものをとりだそうして、見上げた通路の先にある喫煙所のプレートに気が付き、すんでのところでマナー違反を思いとどまった。
日本のクラスメイトや親の前では隠しているものの、チューファの悪友達に教えられて以来身に付いた悪癖。
 今のところエスパニアはそうでもないが、とりわけ欧米社会において、喫煙者でいることは肩身が狭い以外の何物でもないと、ヘビースモーカーの従兄が、ことあるごとに諭してくれた。その口元に煙草が差し込まれていたから、まるで説得力はなかったが、ひとまず中毒だけには注意しようと、これまで自分なりに心掛けてきた。心掛けのお陰で、日頃は日に1ケースが平均となっていたが、この春以降は明らかに消費サイクルが上がった。原因は喫煙者が多いエスパニアでの滞在が増えたことと、それ以上にストレスの為だ。
「ヤニ臭いキスは嫌がられるかな・・・」
 下らない呟きを口にして、最後のキスがいつだったかも思い出せない現実に自嘲しながら、突っ込んだままのポケットから、何も持っていない手を抜き出した。
もう一度、ハビに言われたことを考える。
 口に出すことも出来ないほど、秋彦が縛られている問題・・・。秋彦を最も呵責している何かがあるとするなら、それは間違いなく幼い彼が両親を奪われた事件だ。しかし、そのことは既に原田氏から聞かされ、秋彦自身とも話し合い、今さら僕に隠し立てするとも思えない。
 他に秋彦が隠していることがあるとするなら、それは何んだ? ・・・いや、隠しているわけじゃないだろう。それでも、言い出せずにいる・・・もっと言えば、僕が言わせずにいること。そして、結果として、秋彦に峰を選ばせかけてしまっていることがあるとするなら。・・・馬鹿な。峰を、僕以外の誰かを、僕が秋彦に選ばせたりするわけがない。それでも、僕がこの手を差し出せずに、秋彦に僕の胸へ飛び込ませずにいるとするなら、その原因は何だ。
 秋彦は何についてまだ迷っている? それは、本当に秋彦自身の問題なのか?
「そうではなく、あるいは・・・」
 原田氏は僕に問うた。

 秋彦が足手纏いになれば、君は彼を捨てるのかな。

 そんなことあるわけない。
 何を置いても、僕にとって秋彦は最優先だ。
 もちろん、自分の置かれた立場、任された責任。僕には守るべきものがたくさんあって、それはこの先も膨大に膨れ続けるだろうし、放り出すつもりもない。 僕はすべてを守る所存で、原田氏にもそう伝えた。仕事も愛も、すべてが明確で一点の曇りもない将来のビジョンだというのに、何かが引っかかった。 僕は何を見落としている? 秋彦は何を迷っている?
 パシャリと水が跳ねる音が聞こえて目をあげる。
「あれ・・・?」
 小さな噴水の傍には、色鮮やかな雄のカルガモが一羽、狭い水面でたゆたっていたが、彼の番いがどこにもいなかった。

End




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